清浄心院(和歌山 高野山 )の傘桜

秀吉の花見に関わって「醍醐寺」と「宝蔵寺」の桜を取り上げたのですが、もう一つ取り上げておきたいのが高野山「清浄心院(しょうじょうしんいん)」の樹齢500年とも言われている「傘桜」です。
ただし、この桜の樹齢は諸説あって、500年以外にも200年、300年という説があるようです。

メインストリームから見た「傘桜」

また、品種に関しても見た感じはソメイヨシノみたいなのですが、そうだとすると「200年」でもあり得ない「長寿」と言うことになってしまいます。

この桜は樹勢が弱まったときに樹医が補修をしたらしいのですが、その人の見立てでは「エドヒガン」と「ヤマザクラ」の交雑種ではないかと言うことです。いわゆる「モチヅキザクラ」と呼ばれる桜で、奈良仏隆寺の同種の桜は樹齢が900年を超えていると言われていますので、例え500年でも不思議はないことになります。

「エドヒガン」と「ヤマザクラ」の交雑種か?

「清浄心院」は「奥の院」の入り口にあたる中の橋の前にありますから、その桜は高野山のメインストリートからでもよく目につきます。
確かに大きな桜ですが、仏隆寺の桜などと較べればはるかに小ぶりです。どう見ても樹齢500年は過大評価な気もするのですが、お寺の中に入ってじっくりと眺めてみるとその幹まわりの太さには驚かされます。
とは言え、500年は少し長めに見積もり過ぎな様な気はします。

見るものを圧倒する幹まわりの太さ

ただし、高野山にはもう一つ「もみじ谷のエドヒガン」と呼ばれる巨木があり、この桜は樹齢200年をこえると言われています。樹形全体では「清浄心院」の「傘桜」よりは大きいと言われるのですが、幹まわりは明らかに「傘桜」の方が大きいです。
となれば、おそらくは樹齢300年前後というあたりが妥当な数字かもしれません。

ただし、この「傘桜」が樹齢500年にこだわるのには理由があります。

この「傘桜」は別名「太閤桜」とも呼ばれることがあります。
秀吉は自らの権勢と全国支配の正当性を世に知らしめるために文禄3年(1594年)に供回り5000人を引き連れて「吉野の花見」を行っています。「醍醐の花見」ほどには有名ではありませんが、規模としてはこちらの方がより大きいイベントでした。
この詳細については「吉野の桜」を取り上げた時にでも詳しくふれたいと思うのですが、この「吉野の花見」は形式としては「亡き母(大政所)の三回忌法要」を高野山で執りおこなうための途次で行われているのです。

そして、秀吉は高野山で母の法要を執り行ったときに、この「清浄心院」でも花見を行ったらしいのです。
そして、「傘桜」の樹齢が500年ならば、その時に秀吉がこの桜を見たと言うことになるのです。

しかし、流石に500年は無理があるような気がします。おそらく、この桜は秀吉が見た桜の2代目だと思われます。
「清浄心院」の門を入った右側には「傘桜」と向かい合うように若い桜が咲き誇っていたのですが、おそらくこれが3代目という事なのでしょう。

向こうに見えるのが三代目でしょうか。

秀吉のマザコンぶりは有名で、彼はこの母には終生頭が上がらなかったと言われています。
誰も止められなかった秀吉の朝鮮出兵をやめろと言えたのは母(大政所)だけであり、秀吉はその願いを拒むことができずに出兵を1年延期しています。しかし、2度目の出兵の時には既に母は病が篤く、結果として秀吉は滅亡への第一歩を踏み出してしまいます。
そして、名護屋城にあった秀吉のもとに母危篤の報せが届くと、彼は全てのことを放り出して大坂に戻ってしまいます。そして、彼が大阪に帰り着いたときには既に母は亡くなっており、その衝撃のあまりに彼はその場で気を失って倒れたと言うのは有名なエピソードです。

秀吉はこの母の3回忌のために高野山にお寺を寄進します。
それが「高野山青巌寺」であり、この寺を基礎として現在の高野山の大本山「金剛峯寺」が成立します。

法要の時に秀吉は母の位牌に語りかけ、遺髪を包んだ奉書紙と次の一首を記した短冊を焼香台に捧げたと伝えられています。

亡き人の形見の髪を手に触れて包むに余る涙悲しも

秀吉は無学文盲の徒であったと言われることが多いのですが、それはどうやら事実ではなかったようです。確かに、少年期に正規の教育を受ける機会はなかったようなのですが、信長のもとで頭角を現していく中で彼は必死に学んだようなのです。ですから、その教養は信長や家康を凌ぐものがあったという人もいるほどです。
おそらくこの母への手向けの一首は「官僚」が書いた原稿ではなくて自らの手になるものだったはずです。

そして、「清浄心院」での花見の時にも一句詠んだと伝えられています。

年を経て老木も花や高野山

今ひとつはっきりしないのですが、立て札はこうなっています。

ただし詠んだ句は

才をへて老木の花や高野山

だという説もあるそうで、何ともはっきりしないことだらけの「傘桜」です。
ただし、句意としては年を重ねた己への自負が溢れている「才をへて老木の花や高野山」の方が秀吉らしい気がします。
「年を経て老木も花や高野山」では年を重ねた自分への憐憫のような風情が感じられて、天下人秀吉らしくはないです。

この大政所の法要には、吉野の花見に参加した主だった武将も付き従ったようなので、おそらくその中には「関白秀次」もいたはずです。そして、秀吉が寄進した「青巌寺」での法要に参加したはずです。
そして、この法要の翌年に「青巌寺」で謀反の罪を着せられて切腹させられることになるのです。

数年前まではなかった添え木が添えられていました。

振り返ってみれば、この3回忌法要が営まれたときには秀吉と秀次の間には微妙な空気が流れ始めていました。
いったい秀次はどのような思いで吉野や高野山の桜を眺めていたのでしょう。

清浄心院へ

高野山は、かつては橋本市から曲がりくねった狭い道を上がっていかなければならなかったのですが、最近は京奈和自動車道の「紀北かつらぎIC」でおりれば、そこから30分もかからずに高野山の金剛峯寺の駐車場につきます。
金剛峯寺の駐車場は平日ならば第1・第2のどちらかの駐車場には止められると思います。ただし、高野山も他の観光地の例にもれず、最近は非常に混雑しますので、休日は無理をしないで高野線とバスを乗り継いでい言った方がいいかもしれません。
ちなみに、金剛峯寺の駐車場は有り難いことに無料です。

清浄心院へは駐車場から歩いて15分ほどですが、途中の宿坊の庭には見るべき桜の木がたくさんありますので、ゆっくりと散策するといいと思います。
なお、清浄心院は奥の院の入り口にあるのですが、基本的に墓地である奥の院には桜の木はほとんどありませんので、桜が目的ならばパスした方がいいでしょう。

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