奈良吉野(1)~櫻本坊(さくらもとぼう)の桜

秀吉は自らの権勢と全国支配の正当性を世に知らしめるために文禄3年(1594年)に供回り5000人を引き連れて「吉野の花見」を行っています。この「吉野の花見」は「醍醐の花見」ほどには有名ではないのですが、天下統一を成し遂げた秀吉政権にとっては大きな意味をもったイベントでした。
何故ならば、「吉野」は「日本」という国にとって特別な意味を持つ地であり、そこで「秀吉が主宰する花見」を挙行することは日本国支配の正当性を担保することに繋がるからです。

花矢倉からの眺め

大和政権は自らの存立基盤であった「奈良盆地」の事を「国中(くんなか)」と呼んでおり、その東側に広がる高原状の地域のことを「東山中(ひがしさんちゅう)」と呼んでいました。「国中」の住民にとって「東山中」は風土も生活も大きく異なるので古代においては「異国」のように感じられる地域だったようです。
「吉野」はその「東山中」のさらなる奥地なので、様々な神が宿る地として把握されていたようです。

ですから、外国からもたらされた新しい「思想」である「仏教」が「国中」で花開き、その教えに帰依しながらもどうしても自分の心の中にストンと落ちないという連中は「吉野」に向かうことになります。そして、その「吉野」を入り口とした厳しい山岳修行を通じて成立したのが日本独自の「山岳仏教」であり、その祖が「役小角」だったわけです。
彼は輸入品であった「外国の仏」にどうしても納得がいかず、己の仏を求めて山岳修行を続け、ついに吉野の金峯山で「金剛蔵王大権現」という全く新しい仏と出会ったと伝えられています。そして、その仏の姿を桜の古木に彫りだして吉野と大峰の地に祀りました。

上千本から遠く金剛・葛城を遠望する

やがて「役小角」を慕って多くの行者が吉野に集まるようになると、彼らは桜の木を神木として献ずるようになり、その桜が吉野全体を覆うようになっていったわけです。

櫻本坊の「役小角」像

「役小角」が凄いのは、そう言う修行の中で次々と「外国の仏」と出会いながら、それらはどうしても納得できないとして捨て去った事です。
彼の前に最初に現れたのは「釈迦如来」だと言われています。次に現れたのは「千手観音」、そして「弥勒菩薩」さえも拒否して、最後の最後に「金剛蔵王大権現」という全く新しい仏と出会うのです。そして、その全く新しい仏の姿は明らかに日本の神と外国の仏が出会った様な異形の姿をしています。

この、厳しい修行の果てにまざまざと仏の姿と出会う(感得)という体験は多くの人が書き残しています。
有り体に言えば、それは極度の疲労の中での幻聴もしくは幻覚と言うことになるのでしょう。しかし、己をその様な極限状態にまで追い込むことで出会えた仏の姿は、その様な賢しき後付けの理屈をこえる圧倒的なリアリティがあったはずです。
そして、金峯山寺の蔵王堂に祀られている三体の「青不動」はそれぞれ「釈迦如来」「千手観音」「弥勒菩薩」が「権化」した姿とされて仏教的論理の中に再構築されているのですが、その異形の姿は「役小角」が感じたであろう圧倒的なリアリティを伝えてくれています。

金剛蔵王大権現

日本の神は明治以降の国家統制の中で「国家神道」という歪な形に変容されてしまいました。しかし、そんな数十年にしか過ぎない歪なベールをぬぐい去ってみれば、それは日本人の心の一番深いところにどっかりと腰を下ろしている事に気づかされます。
それは、年を経た古木や天地を轟かせて落花する滝、山中に鎮座する巨岩などを前にしたときに感ずる感情です。

なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる

伊勢神宮を訪れたときの有名な西行の歌です。
これを明治以降の歪な国家神道のフィルターをかぶせて見れば困ったことになるのですが、平安から鎌倉にかけた激動の時代を生きた天性の歌人の言葉として素直に読めば、それはもう全くその通りです。そして、西行にとって「かたじけなさに涙こぼるる」対象は伊勢の神だけでなく、それはまた「吉野の桜」でもあり、さらに言えばそう言う「かたじけななきもの」を求めて「放浪」したのです。

おそらく「役小角」にとっては、「外国の仏」はそういう「かたじけなさに涙こぼるる森羅万象」と融合しなければ、どれほど「理」でもって説得されても己の心にはストンと落ちなかったのでしょう。
そして、己のこころにストンと落ちる仏を求めるためには、ストンと落ちなくても分かったような顔をしている連中から離れて吉野や大峰の峰に籠もらざるを得なかったのです。

そんな吉野に、一人の男がやってきます。
名を大海人皇子と言いました。後の天武天皇です。

桜のシーズンでも静かな櫻本坊

近江の宮で死の床にあった天智天皇は弟である大海人皇子を呼び、自分が亡くなれば皇位を継ぐことを要請します。しかし、大海人はその要請を我が子大友皇子に皇位を譲りたい天智の計略と見破り、丁重にその申し出を断って吉野へと逃亡します。これを知った人々は「野に虎を放った」と嘆いたことになったと伝えられています。

しかし、この話には異説(扶桑略記)もあって、天智天皇が馬で遠乗りをしたときに行方不明となり、とうとう発見されなかったので、天智の沓が発見された場所に陵墓を作ったというのです。
それが、現在の「山科陵(やましなのみささぎ)」と呼ばれるもので、長辺が70メートル、短辺が46メートルという極めて巨大な古墳です。
天皇陵というのは、仁徳天皇陵のように実際に埋葬されているのかどうか不確かな事例が多いのですが、この天智稜だけは間違いないとされている数少ない例です。

困った話ですが、この「天智稜」に間違いないという事実がこの異説の信憑性を高めています。

桜のもとにたたずむ像役小角

この異説を信ずるとなると、天智は病死ではなくて暗殺されたと言うことになります。そして、暗殺されたのならばその黒幕は間違いなく「大海人皇子」と言うことになります。
その後の「壬申の乱」に至る大海人の行動を見ればあまりにも準備が良くスムーズに事が進んでいるので、未だにこの暗殺説は根強く残っています。

例えば、吉野に下った「大海人皇子」には不思議なことが次々とおこる事になっています。
最初は、大海人皇子が勝手神社の社前で琴をかなでていると突然天女が現れて袖をひるがえして舞います。

しかし、天女が舞うだけでは説得力がなかったようで、次は真冬であるにもかかわらず彼の夢に咲き誇る桜があらわれるのです。そして、翌朝目覚めて、夢の中で桜の咲いていた場所に行ってみるとそこには一本の桜が咲き誇っていたのです。
この不思議な出来事を「役小角」の高弟であった角乗に尋ねると、彼は「桜の花は日本の花の王です。この夢は殿下が天皇の位につかれるよい知らせでしょう」とこたえるのです。
この角乗の言葉は大海人陣営を大いに勇気づけたはずです。

神社と寺院が共存するのが日本の伝統です

その後、大海人は壬申の乱に勝利して天皇に即位すると、その桜の咲いていた場所に寺院を建立し、その寺院を「櫻本坊」と名づけて角乗を住職に迎えています。
つまりは、大海人皇子には「正当性」が必要だったのです。そして、「吉野の桜」は「天智」を暗殺したかもしれない大海人皇子に「正当性」を与えたのです。

天武は自らの政権基盤が固まると、6人の皇子を吉野に集め、後継者が草壁皇子であることを誓わせます。
「吉野の盟約」と呼ばれるものですが、天武朝の根幹に関わるこの盟約がわざわざ「吉野」において行われたという事実に、「吉野」という地が持っている重みが感じられます。

また、天武が亡くなった後に皇位を継いだ妻の持統は、頻繁に吉野を訪れるようになります。
当然の事ながら、苦難の時を過ごした吉野で夫を偲ぶなどと言う甘い考えはこの「鉄の女」にはありません。

彼女は盟約があったにもかかわらず、天武が亡くなると草壁の競争相手となりそうな大津皇子に謀反の疑いをかぶせて死に追いやっています。ところが、そこまでしながら、肝心の草壁は天武の葬儀を執り行っている最中に病死してしまうのです。
草壁の遺子「軽皇子」は未だ幼く、彼女は仕方なく夫である天武の跡を継ぐことになります。

櫻本坊の八重桜

しかし、その事は天武が始めた「天皇専制の政治」を引き継ぐことを意味しており、女帝がその任につくことは、女性の地位が高かった言われる古代社会においても大変なことだったと思われます。
そして、その「大変」な事を乗り切っていくために必要だったのが「吉野行幸」だったのです。

「吉野」は常に時々の政権の正当性を担保する存在であり、数十回にわたる持統の吉野行幸もまた持統政権の正当性を世に納得させるためは必要不可欠のイベントだったのです。

つまりは、吉野の桜は常に日本という国を支配する者の正当性のよりどころとなっていたのです。
秀吉による「吉野の花見」もその様な文脈においてみてこそ、ただの酔狂をこえた意味を見いだすことができるのです。

なお余談ながら、この吉野の花見の時に「関白秀次」に割り当てられた宿舎が「櫻本坊」でした。
彼は「関白」だったのですから当然だと思ったのでしょうが、秀吉に子供が生まれるという微妙な空気感が漂う時期だったのですから、もう少し感度を上げることはできなかったのかと思わざるを得ません。

櫻本坊へ

桜の時期に、櫻本坊だけを目的に吉野に行く人はいないと思います。
今さら言うまでもないことですが、桜の時期の吉野の混雑は尋常ではありません。特に休日は吉野に至る国道が渋滞を起こして、夕方になっても吉野には近づけないこともあります。ですから、基本的には近鉄南大阪線で吉野に行くのが利口です。

ただし、それで吉野についても、そこから奥千本、上千本、中千本にたどり着くのも一苦労です。とりわけ、中千本から奥千本へのバスは小さなバス会社が運行しているマイクロバスなので、最低で一時間待ちは覚悟した方がいいようです。なので、待ちきれない人は自力で歩いて上がることになるのですが、ひたすら上りが続くので年配の方にはかなりきついようで、途中で諦めて下山する人も見かけます。

ですから、お金に余裕があれば、そして運が良ければ、吉野の駅でタクシーをつかまえて奥千本の入り口である金峰神社まであがってしまうことです。そうすれば、奥千本の西行庵を訪ねるのもそれほど大変ではありませんし、神社からはのんびりと下りながら上千本、中千本の吉野の桜の絶景を堪能できます。
タクシー料金は平日ならば割合すんなりと上まで上がるので4000円もかからないと思います。

櫻本坊はそうして山から下りてきて、道の両側にお店が並ぶ賑やかな通りの途中にありますので、うっかりすると見落としてしまいますので注意してください。

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