忘ればやしのぶもくるしかずかずの思ひいでてもかえりこぬ世を
白洲正子はこのような絶望的な思いを歌にした天皇はいなかったと語っています。その天皇とは後醍醐天皇の皇子であった後村上天皇です。
彼は僅か6才にして父の命に従って、北畠親房・顕家父子に奉じられて奥州に向かいます。そして、足利尊氏離反の知らせを聞くとその奥州から各地を転戦しながらもう一度京都を目指すことになります。
そして、後醍醐が戦いに敗れて吉野に移ったことを聞くと、美濃で足利方を破って伊勢・伊賀方面から吉野にはいるのです。そして、その吉野で僅か12才にして後醍醐から譲位されて天皇の位につきます。
さらに、その即位の翌日に父である後醍醐は「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マルトモ、魂魄ハ常ニ北闕ノ天ヲ望マン」との遺言を残してなくなってしまうのです。
つまり、彼は僅か12才で、何が何でも京都に帰りたいという絶望的な後醍醐の執念を引き継がざるを得なくなったのです。
人は自分で選択した決断ならば、その結果がどのようなものであっても受け入れることができます。後醍醐にしてみれば「玉骨ハ縦南山ノ苔ニ埋マル」結果は無念ではあったでしょうが、それでも己が選んだ決断の果ての結果であるならば、それを受け入れることはそれほど難しくはなかったはずです。
しかし、いくら何でも、その決断の継続をこのような形で僅か12才の息子に引き継ぐというのは酷に過ぎたような気がします。
ですから、その後の後村上の「がんばり」を見ると涙を禁じ得ません。彼は自分の上にふりかかってきた運命をどのような思いで受け止めたのでしょうか。
哀切を極める南朝の歴史においても、彼の生涯はもっとも哀切なものであると言えるでしょう。そして、その受け入れがたい運命をひたすら堪え忍んで戦い続けた人生であったことはこの歌を詠めばいたいほどに伝わってきます。
京都には二度と帰ることなく41年の生涯を閉じざるを得なかった彼の生涯を思えば、この和歌に託した心情こそが彼の本音であったように思われます。
そんな後村上天皇の行在所であり、その後30年にわたって3代の南朝方の天皇の行在所であったのが河内長野市にある「天野山金剛寺」です。
「寺院」というものは、普通は山の上のような見晴らしのよい場所に立てるものなのですが、この金剛寺に限っては何故か「谷の底」におさまっています。
「後に南朝三代の行在所になったことを思うとき、人生の裏街道を行くのが、おの寺の宿命だったかもしれない」と書いたのは白洲正子でした。
ですから、昔の遍路道と思われる細い道は山の上から下ってきています。
この金剛寺には室町幕府の内紛によって北朝の上皇3名が幽閉されていたことがあります。
つまりは、同じお寺の中に北朝と南朝の行在所が同居していたのです。
北朝の行在所はその後もよく整備されていたのか、京都の寺院にも負けないほどの立派な庭園も含めて綺麗に残されています。内部の様子は拝観料400円でいつでも見学することができます。(特別展があるときは500円)
それに対して南朝の行在所は建物は残っているのですが、南北朝時代のものとは随分形が変わってしまっているようです。こちらは外観を眺めるだけです。
ただ驚くのは、この2つの行在所は直線距離にして30メートルも離れていないほどの至近距離にあることです。お互いの塀と塀の間には細い通りと小さな流れ(天野川)があるだけです。
この至近距離で4年という歳月を一緒に過ごしたわけなのですが、どちらにしても随分気詰まりだったことでしょう。
しか、この奇妙な同居も尊氏が力で幕府の内紛を収めると解消されることになります。武力では圧倒的に劣る南朝方の後村上は、再びこの天野山金剛寺を追われて冬の寒空の中を歓心寺へと移っていくことになるのです。
白洲正子は「かくれ里」の中で「この二つの寺は、車で十分ぐらいしかかからないが(管理人注:十分では無理です、最低でも二十分はかかります)、同じ道を落ちていった天皇一行には師走の風はどんなにか冷たく、千里の道を往くが如くに感じられたであろう。」と書いています。
こういう感覚はどれだけ本で読んでみても実感がわかないのですが、この金剛寺に来てとなりあった南北両朝の行在所を眺めることで実感できるものがあります。
また、さらに拝観料200円を支払って(^^;伽藍の方にはいる事ができます。
この伽藍で目立つのは朱塗りの多宝塔です。
しかし、それ以上に興味をひかれたのが、後村上天皇が政務を執ったとされる「食堂(じきどう)」です。
「食堂(じきどう)」とはその名通り「僧侶が食事をする建物」なのですが、本当に小さな建物です。
ここで政務を執ったといってもそれは「国を治める」というようなものではなくて、そこから各地に天皇の名で送付する「綸旨」のようなものを作成する場だったのでしょう。
それから、天野山金剛寺でもう一つ付け加えておかなければならないのが白洲正子が愛した屏風絵として有名な「日月山水図屏風(じつげつさんすいずびょうぶ)」です。
この屏風絵は1年に2回公開されるのですが、今年(2017年)は秋にイタリアのウフィツィ美術館に貸し出されるとかで、春の1回(5月5日)だけという事です。
右隻
左隻
と言うことで、5月5日の朝一番に行ってきました。
いつもは静かな金剛寺も流石にこの日ばかりは少しは賑わっていました。
図録では見たことがあるのですが、これもいつも言っているように「絵」というのは実物を見てみないと本当のことは分からないものです。その「分からない」の一番はその「大きさ」が実感しづらいことで、やはりこれも何となくイメージしていたよりは「大きい」作品でした。
もっとも、この屏風絵は「美術作品」として描かれたものではなく「灌頂」という仏と縁を結ぶ密教儀式のために描かれたものなので「作品」という言い方は相応しくないかもしれません。
そして、そう言う「絵」であるためか、そこに「上手く描こう」という「欲」が全くありません。
山の形も素朴であり、そこに生い茂っている松の木もその根っこに至るまで妙に一本一本丁寧に描き込まれています。こういう表現を最近は「ヘタウマ」というらしいのですが、じっくり眺めてみればそんな小手先の技術とは違う迫力がこの絵にはあります。
白洲正子は「金剛寺に住んだ画僧が、自然と長い間つき合って、すっかり自分のものにした後、心の中の風景を描いたように思われる」と書いています。
確かに、この近くに一徳坊山と言う山があります。
別名「和泉山脈のマッターホルン」とも呼ばれる山で、この屏風に描かれた山はその一徳坊山とその周辺の山を思わせるものがあります。
そして、雪をかぶった山は遠くに望まれる大和葛城を思わせます。
今は暖かくなって葛城山が真っ白になることはなくなりましたが、この絵が描かれた室町末期はかなり寒冷な気候だったと言われているので、結構こういう真っ白な雪山の姿になっていたのかもしれません。
自然の中で自然と一帯となって修行を続ける中で、その心の中に結晶化されたイメージを何の衒いもなく丹念に書き込んでいったこの絵は、その後の専門家になっていった絵師には不可能な表現です。
それから、大事なことを一つ書き忘れていました。右隻の屏風の一番右端にはヤマザクラが咲く山の姿が描かれています。
それは青々とした山のあちこちにポツリポツリと咲くヤマザクラです。
今では桜と言えばソメイヨシノで、一カ所で集団となって一斉に咲き誇ることを持って桜の値打ちとされます。
しかし、室町の人にとっては、そしてそれよりも古い時代の人にとっては、桜とは青い木々の間にポツリポツリと咲くものだったのです。
そう言う室町の人の桜に対する美意識も感じ取れる屏風絵です。
これがこの秋にイタリアで公開されると言うことなので、外国の人々がこれをどのように受け取るのか、少しばかり興味があります。
天野金剛山へ
お寺の前に路線バスの停留所があります。南海高野線の河内長野駅前から4番乗り場で「天野山」を通過するかどうか確認してください。
旧の国道170号線に沿って建っているのですが、車で行くときは白洲正子も書いているようにその国道よりも一段低い窪地のようなところに建っているのでうっかりすると見過ごしてしまいます。ただし、新しくできた170号線(外環状線)からは3つある天野山トンネルの2つめと1つめの間から旧国道に下りる道がありますので、まず迷うことはないと思われます。
なお駐車料金は文化財保護のために募金として払ってほしいという旨が書かれています。志がある方は募金箱が受付におかれていますのでそこへ入れます。ただし、入れなくても気まずい思いをすることはないようです。(^^;
1 comment for “天野山金剛寺(大坂 河内長野市)の桜”