町石道は「ハイキングコース」として辿っても楽しいが、そこには様々な歴史が積み重なっている。そう言う積み重なった歴史の中から「日本の古層」とも言うべき姿を感じとることが出来る。
吉野の桜にしても高野の信仰にしても、そこには1000年を超える時が積み重なっている。
その様な積み重なりにまで視野を広げず、自分にとって都合のよいごく一部の時代だけを切り取ってきて「日本の美しさ」だと主張するような愚は犯したくないものである。
二つ鳥居を過ぎるとすぐに「神田」の里にでる。天野の里のさらにその奥に小さな隠れ里があるというのはいささか驚きである。
この神田の里に小さな地蔵堂があって「横笛の悲恋物語」が残されている。
町石道関連のブログは多くて様々な紹介が為されているが、この「神田地蔵堂」に関しては「悲恋物語が伝えられている」と記しているだけで、その詳細にはふれているサイトはほとんどない。
町石道の紹介は一休みをして、横笛と北面の武士斉藤時頼(出家してからは滝口入道と名乗った)との悲恋物語を紹介したいと思う。
「神田の里」は名前の通り、「神の田」があった里である。
「神の田」とは言うまでもなく「丹生都比売神社」の神にお供えをする米を作るための田である。そして、目の前に広がっている水田がかつての「神の田」であったと思えば感慨深いものがある。限界集落にしてはあまりにも水田が整備されているので、もしかしたらこの田で取れた米は今も「丹生都比売神社」に献じられているのかもしれない。
この悲恋物語が多くの人の心に残ったのは平家物語の中で語られたからである。
江戸時代には浮世絵の題材として何度も取り上げられている。さらには、明治になってからも高山樗牛が小説にもしているのでよほど多くの人の心に響いたのであろう。
平家物語では横笛なる女性は建礼門院に仕えていた「雑仕女(ぞうじめ)」とされている。
「雑仕女」とは高貴な女性に仕える召使いのことで、女官のようにお目見えすることは許されない下働きの身分である。しかしながら、清盛が催した花見の宴で横笛の舞う姿に時頼は心を奪われたと伝えられてもいるので、おそらくは白拍子だったと思われる。
白拍子と言えば清盛の愛妾となった仏御前や義経の静御前などが有名である。
時頼もまた、花見の宴で美しく舞う横笛の姿に一目惚れをして恋文を送るのである。しかし、熱い思いをこめて恋文を送っても横笛からは何の返事もなかったので懊悩の日々を送ることになる。
どうやら、時頼は横笛を正室にしたかったようなのである。
しかし、考えてみれば、片方は今ときめく平家一門の御曹司であり、自らは一介の白拍子もしくは雑仕女である。そんな自分を正室にしたいという一途な思いは逆に恐かったはずであり、いい加減な返事など出来るはずもないのである。
やがて、そんな時頼の振る舞いは父の耳に届くようになり、厳しく諌められる。
世にあらん者の婿子にも成し出仕などをも心安うせさせんとすれば、由なき者を思ひ初めて
「由なき者を思ひ初めて」と言う言葉は、横笛の恐れをそのまま裏返しにした言葉である。
ところがこの「つまらぬ女に惚れよって!」という父の叱責に時頼は開き直ってしまう。
たとひ人長命といへども七十八十をば過ぎず。その中に身の盛りなる事は僅かに二十余年なり。夢幻の世の中に醜き者を片時も見て何かせん
この「夢幻の世の中に醜き者を片時も見て何かせん」という言葉には、どこか西行の影響を感じてしまうのである。
この言葉は「夢幻の世の中で、わずかの間でも醜い者と連れ添ってどうしようというのか」と訳すのが一般的なのだが、私はそのまま「夢か幻のようにはかない世の中で、わずかの間でも醜いものを見てすごせるか」としたい。
時頼の胸の中には権力争いに明け暮れる一族の姿を「醜い」と感じる思いが生まれていたのではないだろうか。そして、その思いの中には、23才で出家して現実の醜さから超越して生きている「西行」という存在があったのではないだろうか。
思はしき者を見んとすれば父の命を背くに似たり
これも、「愛する人と連れ添おうとすれば父上の命に背くに等しい」と訳すの一般的なのだが、これもそのまま「自分が見たいと思うものを見ようとすれは父の意志に反することになる」としたい。
つまり、横笛への恋慕は一つのきっかけではあったであろうが、その奥には平家一門としての己の生き方への懐疑が芽生えていたのではないかと推測してしまうのである。
そうでなければ、「これ善知識なり、如かじ憂き世を厭ひまことの道に入りなん」と言って出家してしまうのは、いかにも飛躍しすぎた行動である。
西行の出家は23才で、それでもその若さでの思い切った行動は多くの人を驚かせたのだが、この時の時頼はわずかに19歳だったのである。
しかし、可哀想なのは取り残された「横笛」である。
時頼にとっては横笛はひとつのジャンピングボードであったかもしれないが、その時頼が父の命に刃向かって出家したと聞けば、抑えに抑えていた思いが横笛の中ではあふれ出したことは容易に想像される。
横笛この由を伝へ聞いて「我をこそ捨てめ様をさへ変へけん事の恨めしさよ。たとひ世をば背くともなどかはかくと知らせざるべき。人こそ心強くとも尋ねて恨みん。」と思ひつつ、ある暮れ方に都を出で嵯峨の方へぞ憧れける
「恨めしさ」は「恋しさ」と同義語である。いや、それ以上の「激しさ」を表す言葉である。京の街をさまよい歩きながら、彼女は出家した時頼の行方を捜すのだが、ついに嵯峨野において「住み荒らしたる僧房に念誦の声しけり」と、出家した時頼の居場所を探し当てる。
そして、その念誦の声が間違いなく時頼の声であることを確信して、お付きの女性に声をかけさせる。
様の変はりておはすらんをも見もし見え参らせんが為に、わらはこそこれまで尋ね参つて候へ
その声を聞いた時頼は「胸うち騒ぎ、あさましさに障子の隙より覗いて」しまうのだが、その目に映った横笛の姿が哀れを極める。
裾は露、袖は涙に萎れつつ、まことに尋ねかねたる有様
横笛への思いを断ち切ったはずの時頼もその姿に「いかなる道心者共も心弱うなりぬべし」と心乱れるのである。
このあたりに時頼という男の真面目さがあらわれているのだが、それでも、時頼が求めようとしたのは「情」としての「美しき女性である横笛」から「理」としての「美しきもの」へと変化していたのである。
そして、その「美しきもの」を求めるために彼は出家したのである。
横笛がこうして会いに来てくれた事で時頼の「情」は動いたはずであるが、「理」としての「美しきもの」を求めて「出家」という一歩を踏み出したのである。
そこで、彼は涙を流しなら「全くこれにはさる事なし。もし門違へにてやら候ふらん」と彼女を拒否してしまう。
男の馬鹿さ加減は人としての真っ当な「情」をつまらぬ「理」で置き換えてしまうことである。
しかし、時にはその「理」が「情」以上のものを成し遂げることもある。
時頼は横笛への思いをきっぱりと断ち切るために嵯峨野を離れて女人禁制の高野山に上ることになり、偉大なる高野聖となったと伝えられている。
それは「情」を乗り越えた「理」のなせる技である。
しかし、いつの時代も人の心を動かすのはその様な「理」ではなく「情なう恨めしけれども力及ばず涙を押さへて帰りけり」という「情」に生きた「横笛」の姿である。
そして、この「横笛」の「情」に心を寄せる人々によって様々な後日譚が作りあげられていくことになる。
もっとも哀れなのは、絶望した「横笛」は川に身を投げて命を絶つというものである。おそらく、これが最も事実に近いのではないかと思われる。
しかし、それではあまりにも哀れに過ぎるので、平家物語では法華寺で剃髪して出家し、失意の中でこの世を去ったことにしている。
その後横笛は奈良の法華寺にありけるとか。その思ひの積りにや幾ほどなくてつひにはかなくなりにけり
法華寺には今も横笛が住んだという「横笛堂」が残されている。しかし、その建物はどう見ても横笛が生きた時代のものとしては新しすぎる。
また、この法華寺には横笛が時頼に宛てた恋文の反故紙をもとにして作ったという「横笛の像」も残されている。
それはもう「情」が「念」へと転じて凝固したものとなっている。
そして、横笛にもう一押しの強さがあれば、おそらく彼女は清姫のように「蛇」に転じて時頼を追い詰めて焼き殺したことであろう。
おそらく、「横笛堂」も「横笛の像」も、横笛の物語と法華寺が平家物語の中で結びつけられたことで後世の人が供養として作ったものかもしれない。しかし、疑いようがないのは、法華寺の中では今も大切な存在として横笛が生き続けていることである。
さらに驚かされるのは、この法華寺以外にも「横笛庵」や「横笛の像」が残されているのである。中には、他の人々の恋が実ることを願って時頼から寄せられた千束の恋文で自らの像を作ったという話も伝わっているところもある。
それらはすべて、それぞれの人の胸の中で生まれて生き続けた横笛の姿なのであり、それらを偽物として否定するのは正しくない。
そして、人々はさらに横笛を生き続けさせることになる。
それが、高野山に上がった時頼を慕って、横笛もまた天野の里に住み着いたという後日譚である。
もちろん、女人禁制の高野山におもむくことは出来ないので、女人として一番近くまでいける神田の地蔵堂で時頼を待ち続けたというのである。
来るあてもない男を地蔵堂でひたすら待ち続けるというのも哀れを極める話だが、それもまた多く人が横笛に期待した姿であったのだろうか。
残念ながら、この地蔵堂は地域の人にとっては信仰のよりどころだったので建物が傷むたびに修復されてきたのであろう。今ある地蔵堂はかなり新しく建て直されたようで、そこから横笛の悲恋に思いを馳せるのは難しい。
しかし、天野の里には時頼を待ち続けてこの世を去った横笛の墓が「横笛の恋塚」として残されている。
この塚は木々の間にひっそりと埋もれていて、それは横笛という儚き人生をおくった女性の姿を偲ばせてくれる。ただし、その横に高野山の偉い僧侶による書で歌碑がたてられているのは正直言って余分である。
余分であると思ったのだが、さらによく見ればその書は高野山大圓院の住職によるものであった。大圓院は時頼が第8代の住職を務めた寺院であった。
1000年の時を経た時頼からの供養と思えば無下に否定も出来ないだろう。
もちろん、その墓が本当に横笛の墓なのかどうかはそれほど重要な問題ではない。
大切なことは、そう言う女性がここに生きたと言うことを多くの人が信じ、そして高野山でも、天野や神田の里でも、横笛が人々の胸の中に今も生き続けているという事実こそが重要なのである。
人々は「理」に生きて偉大な高野聖となった時頼のことは語り継がなかったけれども、おのれの「情」に殉じて儚くこの世を去った横笛のことは決して忘れなかったのである