3.町石の材質と加工
さて、このように巨大な構築物だった町石なのですが、その材料として使われたのはどのような石材だったのでしょうか。
高野山の古い時代の石塔は二上山などで産出する「凝灰岩」が使われていたようです。また、江戸時代になると和泉地方で産出する「砂岩」もよく使われていました。
凝灰岩や砂岩は柔らかい石なので細工がしやすかったようなのですが、それと引き替えに耐久性に問題がありました。
それに対して、鎌倉時代に設置された町石はより「永久性」を求めて花崗岩が使われる事が多かったようです。実際、幾つかの例外はあるようなのですが、高野山の町石の大部分は花崗岩で作られています。
しかし、そうなると二つの疑問が引き起こされます。
一つめの疑問は、高野山やその近辺で花崗岩が産出する場所はありませんから、材料となる花崗岩はどこから調達したのかということです。
もう一つの疑問は、その様なかたい花崗岩を誰が加工したのかと言うことです。
まず一つめの疑問なのですが、これは残された町石の材質を詳しく調べると、白を基調とした中に桃色が混じる桃色花崗岩であることが分かります。この桃色花崗岩が大量に産出するのは現在の神戸市御影なので、おそらくはそこから運ばれたものと推測されます。
六甲山には現在も「石切り道」というハイキングコースが残されています。
御影で切り出した花崗岩を海路で紀ノ川の河口に運び、そこから川に沿って九度山の慈尊院の前まで持ってきたものと思われます。
その証拠として、この最後の荷下ろしで失敗して川の中に落としてしまったと思われる石材が近年になって引き上げられています。
花崗岩は1立方センチメートルあたり2.5グラムから2.7グラムと言われますから、材料の石材を削ったり磨いたりして完成させた状態で重さは約750キログラム程度になる計算です。材料となる石材はこれよりも一回り以上大きかったでしょうから、おそらくは1トン近くの石材を切り出して運搬したことになります。
次ぎに二つめの疑問ですが、おそらく「宋」からわたってきた「伊行末(いのゆきすえ)」という人を始祖とする「伊派」の石大工しかないと推測されています。何故ならば、この時代に花崗岩を細工する技術を持っていたのは彼らしかいなかったからです。
ですから、この町石プロジェクトを完成させるために、「伊派」の石細工の集団が九度山の慈尊院周辺に住み着いて加工にあたったものと考えられます。
4.町石の費用
それでは、そのような町石を1基たてるのにどれほどの費用が掛かったのでしょうか。
まず、町石を作るためには上で述べたような巨大な石材を遠く神戸から運ばなければいけません。
「一石彫成」の石塔なので巨大な石材を切り出しそれを運搬するのにはかなりのコストがかかったものと思われます。
次ぎに、運び込んだ石材を町石に加工するための費用が必要です。
これは加工そのものを請け負う石大工に支払う費用と、そこに彫り込まれる梵字や銘文を書いてもらう費用も発生したものと考えられます。
梵字に関しては、高野山の僧侶だった「信範」という人がかいたものと推測されています。彼は、鎌倉時代を代表する言語学者で、梵字に関する著作も残しています。
銘文に関しては、三蹟の一人、藤原行成の流れを汲む世尊時流(書道の流派)の9代目、藤原経朝(世尊寺経朝とも呼ばれる)だと推測されています。
ただし、経朝はこのプロジェクトの途中でなくなるのでこの仕事は子供の経伊(つねおさ)に引き継がれたと考えられています。
字体は太字の力強い経朝に対して、細身の経伊と言われているようです。
私の見た感じではこれが経朝の書。
こちらが経伊の書ではないかと思います。
みれば随分違いがあるものです。
おそらく、彼らは五輪卒塔婆の形が出来上がった町石に直接筆で銘文や梵字を書き込み、その墨に添って石大工が鑿で彫り込んでいったものと考えられます。藤原経朝は正三位まで昇進した高位の貴族であり、さらには当代きっての書の達人でしたから、その滞在費用も含めて少なくないコストがかかったのではないでしょうか。
さらに完成した町石を目的の場所まで運ばなければいけません。
おそらくは、丸太を並べた上を人力で運び上げたものと推測されるのですが、この設置にもかなりの費用が掛かったものと思われます。今も、町石道には「銭壷石(ぜんつぼいし)」と、それにまつわる安達泰盛の逸話が残されているのですが、この仕事のために人手を集めてやる気にさせるにはかなりの苦労があったことも伺えます。
さらに、この町石の寄進はどうやら1町分の参詣道補修の費用も含まれていたようなのです。
つまり、根本大塔を中心として慈尊院川に180町石、奥の院側に36町石が立てば、それに合わせて参詣道そのものも整備される仕組みになっていたようなのです。そして、この道の整備は町石を目的の場所に立てるときに同時に行われたようです。
ということで、町石一基を参詣道に建てようと思えば半端なお金ではできないことは何となくお分かりいただけかと思います。
しかし、社会状況も全く異なる二つの時代を現在の貨幣価値で置き換えるのはそれほど簡単ではありません。簡単ではないのですが、石造建築の専門家の考察によると、その費用は今日の貨幣価値で2億円から3億円程度はかかったものと考えられるそうです。
ですから、鎌倉期に20年をかけて行われた町石整備はは400億円から700億円規模の巨大プロジェクトだったわけです。
ということで、次回はこれほどの巨額の資金をだれが負担したのかという問題について考えてみたいと思います。