「藤井 聡太」とは何ものか(2)

藤井聡太六段が「対局数」「勝数」「勝率」「連勝」の全4部門で第1位となった事が再び話題になっています。
この四冠制覇は過去に内藤九段と羽生永世七冠しか達成していない「偉業」です。それを中学生が実現したのですから驚きと言えば驚きなのですが、その反面、まあそれも当然だろうなと言う思いもあります。

見た目に騙されてはいけないのですが、あの「藤井聡太」というのは紛れもなくく将棋界においては「鮫」です。
その「鮫」が「鰯」の群れに放たれたのですから、それくらいは勝つだろうと言う思いもするのです。

鰯の群れに放たれた「藤井鮫」

ですから、それ以上に注目すべきなのは、将棋界は「羽生以降」と呼ばれた時代が終わって、もしかしたら「藤井以降」と呼ばれる「新しい時代」が始まろうとしているかもしれないと言うことです。
ただし、取りあえず「藤井以降」と書きましたが、その新しい時代の覇者が果たして「藤井聡太」になるのかどうかまでは分かりません。しかし、その新しい時代の象徴が現時点では「藤井聡太」であることは間違いありません。

この「新しい時代」を牽引しているのは疑いもなく「AI」です。
まず、事実として認めなければいけないのは、既に人間の頭脳では「AI」に勝つことは難しくなっていますし、もう少しすればそれは全く不可能になる可能性の方が大きいのです。

しかし、ここで注意しなければいけないのは、その事実を持ってプロの「棋士」という存在が無意味になると言うわけではありません。
そんな事は、ウサイン・ボルトがレーシングカーと競争して勝てないからといってその存在を無意味だと断ずるのと同じほど馬鹿げた論議です。

レーシングカーはレーシングカー同士でその性能を競いあえばいいのであって、人間は己の肉体を鍛え上げてその限界を人間同士で競いあえばいいのです。
F1のチャンピオンも100メートル走の金メダリストも同じように尊敬の対象となるのです。

ですから、将棋の世界においてもこれからは「人間 vs AI」という異種格闘技の世界は終わりを告げて、「F1」のように「AI」同士の対戦が別ジャンルとして成立するはずです。
ただし、陸上競技のアスリートがフォーミュラーカーの走りから学ぶことは何もありませんが、将棋の場合は「AI」の指し回しを人間が学んで、それを自分の中に取り入れることは可能です。

いや、それは「可能です」などと言うものではなくて、それをしなければプロの棋士として生き抜いていけない時代が来つつあるのです。
そして、そういう「AI」の技術を取り入れることが不可避となる時代のことを「藤井以降」と名づけたのです。

それは、「羽生以降」と名づけた時代におけるコンピューターの活用とは一線を画します。
「羽生以降」におけるコンピューターの活用というのは、それはどこまで行っても人間が長い年月をかけて築き上げてきた「経験」をデータベース化することでした。そして、そのデータベース化はクローズだったこの世界に大きな風穴を開け、棋譜という形で次々と追加される「新しい経験」はほぼリアルタイムでデータベースに追加されて整理されていったのです。

そして、その日々更新されるデータベースにアクセスをして最新の知見を取り込んでいる棋士と、それを怠っている棋士との間には埋めがたい格差が発生する事になり、それが結果として「鮫」と「鰯」という二極化を生み出したのです。
しかし、それでも、そこにあるのはどこまで行っても「人間の経験」の蓄積と整理、分類の域を出るものではありませんでした。根っこにあるのはあくまでも「人間の経験」だったのです。
ですから、長年の経験で「これはないね」という選択肢は最初から切り捨てられていました。

しかし、「羽生以降」において膨大なデータベースが蓄積された事が、「AI」の飛躍的な進歩をもたらしたことは見ておく必要があります。
それはどういう事かというと、この蓄積されたデータベースを「AI」が取り込むことで、そこを出発点としてディープ・ラーニングを繰り返すことできたのです。
そして、その結果として、あっという間に人間の経験則をこえるような「最適手」を次々と見つけ出すようになったのです。

もしも、その様なデータベースが存在せず、将棋の基本的なルールだけをプログラミングしただけの状態からディープ・ラーニングをさせていれば、これほど急速に進歩することはなかったはずです。
そして、そのデータベースは今も日々更新され続けていて、「AI」はそのデータベースを定期的に最新のヴァージョンに更新するのです。

考えてもみてください、例えば新しく1000局の棋譜がデータベースに追加されたとするならば、「AI」はそれを一瞬で自分の中に取り込めますが、それと同じ事を人間がやろうとすれば膨大な労力と時間がかかるはずです。
とてもじゃないが人間がかなうはずがありません。

そして、これが重要なのですが、そうして繰り出される「人間の先入観」や「常識」を破壊するような「AI」の指し手を突きつけられた時に、それに違和感を感じて拒否してしまう人と、それを無理なく取り込める人とに分かれてしまいそうな雰囲気なのです。
例えば、朝日杯の準決勝での対羽生戦で藤井が指した「4三歩」に対する羽生の応手です。

朝日杯準決勝 羽生 vs 藤井

羽生は残り時間を全部使い切って「4三同金右」と応じたのですが、結果的にはこれが疑問手で、「AI」はその歩をどの駒でもとらずに5一玉と逃げることがベストだと示唆するのです。
しかし、攻撃拠点となってしまう「4三歩」をそのまま残して玉が下段に落ちるというのは、それまでの人間の経験からすれば「あり得ない」発想なのです。

問題はここから始まります。

それでは、もしもこの局面で取れる4三歩をとらずに5一玉と逃げるのが正解だとコンピューターに教えてもらったとして、果たして「人間」の力だけでその後を誤りなく指し続けて勝ちを得ることが出来るでしょうか。
おそらく、ほとんど全てのプロ棋士にとって、その問いかけへの答えは「No!」でしょう。

そんな人間の常識を破壊するような手を選択して、その後をその発想に従って誤りなく指し続けるというのは、「先入観」という重荷を背負ってしまっている人間にとってはとんでもなく困難なのです。
そして、それは過去の知見を徹底的にデータベース化して、それを己の中に取り込むことによって「鮫」となった棋士であればあるほど難しいように見えるのです。

しかし、そのような「AI」の感覚を取り込むことに違和感の少ないグループが「藤井聡太」に代表される一群の若手棋士達の中から現れつつあるのです。
それはもしかしたら、「鮫」の中からさらに「鯱」に変身しつつあるグループが現れ始めているかも知れません。

もしもそれが現実のもになれば、「鮫」の世界がこんな風に変わるのでしょうか。(^^;
もしも、こんな世界が現実のものになれば「鰯」はどこで生きていけばいいのでしょうか?

では、藤井聡太は何故に「鮫」から「鯱」に変身できたのでしょうか。
私はそこに、彼が幼い頃から親しんできた詰め将棋に目を向ける必要があるのではないかと考えています。
もしかしたら、その世界で鍛えた精緻な読みの力が「AI」の感覚を取り入れる上で大きな役割を果たしているように思えるのです。(続く)

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