「藤井 聡太」とは何ものか(6)

竜王戦5組ランキング戦準々決勝に勝利して「7段昇段」に王手と言うことが話題になっています。
これは、竜王戦で連続昇級すれば昇段という規定によるものです。

おそらく、プロ入り直後の29連勝では懐疑的な見方をしていた人々も、最近の凄まじい勝ちっぷり(対局数・勝利数・勝率・連勝の4冠制覇)をみていると、そう言う懐疑も捨てはじめていることでしょう。そして、藤井聡太の登場は将棋という世界が新しい時代に突入したことを象徴的に示す出来事だと言うことを感じ始めているはずです。

吉野吉水神社からの眺め(一目千本)

世間ではほとんど話題にはならなかったのですが、順位戦C級1組で、千田六段が全勝のぶっちぎりで昇級を決めました。
この千田六段というのは仲間内の研究会には一切参加せず、将棋の研究はパソコンだけという「変わり者」として有名だったのですが、最近はその行動に結果が着いてきたようです。
疑いもなく、これからの将棋界では「AI」と上手くつきあえない棋士には未来はないと言うことが次第に明らかになりつつあります。

緻密な読みなくして「AI」とはつきあえない

そして、もう一つ明らかになりつつあるのは、緻密で早い「読み」がなければ「AI」とはつきあえないという事です。
かつての将棋界では長年の対局を通して身につけた「経験」こそが重要であり、それ故に棋力のピークは若い時代ではなくて、経験を積み重ねた30~40代だと言われたものです。

吉野下千本の桜

しかし、今明らかになりつつあるのは、そう言う「人間の経験」よりも、「AI」の読みに追随できる正確で早い「読みの能力」こそが将棋には必要だと言うことです。
そして、その様な「正確で早く読む」能力を藤井聡太は間違いなく「詰め将棋」で身につけたのです。

たとえてみれば、「詰め将棋」というのは「学校での学習」に似ているかも知れません。
「限定された局面」の中で課題が出題され、その課題には必ず「解答」が存在しています。

吉野中千本の桜

それに対して「将棋」における戦いは「社会」そのものの縮図です。
局面は刻々と変化するがゆえにそのヴァリエーションは無限であり、それ故にそれぞれの局面における「正解」がどこにあるのかは、簡略化され煮詰まってきた局面にでもならない限り、それがどこにあるのかは誰も分かりません。

そして、そう言う「正解」が誰にも分からない状態の中で大きな力を発揮するのが「経験」だったわけです。

そう言う「経験」というものが持つ重みは、「いくら学校の勉強がよくできても、それだけでは社会には通用しない」という「よくあるフレーズ」に根拠を与えるものでした。
さらに言えば、学校の勉強なんてものはこの世の中を生きていく上では何の役にも立たないものであり、それよりは社会に出て経験を積み重ねる方が大切だという、これまた「よくあるフレーズ」にも根拠を与えていたのでした。

吉野上千本の桜

しかし、この二つの関係を「AI」は根底から覆そうとしているように見えます。
それは、正解などないと思われていた局面において、「AI」は「正解らしい指し手」を提示しはじめたからです。
さらに困るのは、その提示してくる「正解と思われる指し手(選択肢)」は長年の経験と情報交換の中で積み重ねてきたパターンとは相容れない場合が多いのです。

そして、そう言う長年の経験からは受け容れがたい「正解らしい選択肢」を受け容れるために必要なのは「経験」ではなくて、その「AI」の選択肢に追随できるだけの「緻密で、正確で、早い読みの能力」なのです。
そして、人間が「AI」に勝てなくなった時点で、「経験」は「緻密で、正確で、早く読める能力」にたいして主役の座を譲り渡したのです。

そう言う意味では、これからの将棋の世界はアスリートの世界に近くなるかも知れません。
なぜならば、そう言う正確に早く読む能力というのは、肉体と頭脳の若さに依存するからであり、それは加齢によって確実に衰えていくからです。そして、そう言う能力を幼い頃から徹底的に鍛え上げた人でないと、もはやこの世界ではトップに上りつめることは出来ないのです。

学校の学習において基本的な能力を見つけないと生き抜いていけない時代が来るのかも

おそらく「AI」は将棋の世界だけでなく、今後はより幅広い分野に進出してくるはずです。
おそらく、国政や安全保障というような大きな局面に投入されるには時間がかかるでしょうが、例えば人材に乏しい地方の自治体ならば、地域の振興政策の立案などに「AI」を導入することは十分にあり得る話かも知れません。
そうすれば、今までの「常識」や「経験」などを根底から覆すような選択肢を「AI」は提示するかも知れません。

吉野水分神社の枝垂れ桜

例えば、過疎化の進行によって原発を再稼働するしか生き残る道はないと、長年の経験で信じ込んできた選択肢とは全く異なる選択肢を提示される自治体が現れてくるかも知れません。。
もしも、その様な選択肢が提示されたのならば、それを選び取るのは将棋の指し手を選択するよりははるかに困難な選択であろう事は容易に察することは出来ます。

しかし、もしもその様な選択肢が提示された時に、長年の「経験」やあれこれの利害関係などを前提として、最初から「それはないよね」などと切って捨ててしまえば、それは将棋界における「弱小鰯軍団」と同じ立場に落ち込むことを意味します。

重要なことは、取りあえずはその選択肢を前提として徹底的に検討してみることであり、ありとあらゆるデータと人々の思いなどを検討の俎上にのせて緻密で正確に読み切る事です。
そして、そういう「AI」が提示する選択肢を検討するために必要なのは、その検討の前提となるデータを収集し、それを分析できる「精緻で緻密な頭脳」です。

そして、そう言う能力というものは「社会的経験」の以前に、教育機関において基礎的な訓練を受けていなければ身につかない能力です。
もっと有り体に言えば、学校での「お勉強」に真面目取り組んで、そこでこれからの「AI」社会に生きる上で必要なスキルを徹底的に鍛え上げておく必要があるのです。

真面目に勉強した奴しか生き残れないのかも・・・ニャン

もちろん、原発云々の話は例として持ち出しただけであり、もしかしたら「AI」は「原発再稼働やむなし」と言う選択肢を提示するかも知れません。
個人的には火山と地震の巣窟であるようなこの国で原発を稼働し続ける選択肢などはあり得ないと思うのですが、それでも「AI」がその道を選択したのならば、それはそれで、過去の自分の思いこみなどは一度御破算にして、その選択肢を「AI」の読み筋に添って再検討してみる必要があるでしょう。

そして、「AI」がどのような選択肢を示したとしても、最後に結論を下すのはどこまで行っても人間です。真摯に検討をして、徹底的に読み切ってもその選択肢を選び取れないときもあるでしょう。
しかし、それでも、そう言う思いもしなかった選択肢を真摯に検討したことは今後の政策決定において大きな意味を持つはずです。

「AI」の暴走と言うことがよく話題になるのですが、最後に結論を下すのは人間だという「強さ」が社会の中で共有されていれば、その様なことは起こらないと私などは思います。
ただし、今の社会は「個」としての強さを持って選択していく強さはそれほど育っていないように見えるので、その意味では懸念はないわけではありません。

世論調査などで「分からない」という選択肢があるのですが、どの調査を見てもそう答えている人が常に一定数存在します。
私にとっては自分とは反対の立場を表明する人よりも、こういう「思考停止」の人たちの方が危なっかしく思えてしかたがありません。

なぜならば、それは考えようによっては「弱小鰯軍団」にも及ばない存在であり、もしかしたら「AI」社会の中でいとも容易くコンピューターに操られてします存在かもしれないからです。(この項終わり)

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