根性なしの話

戦争の時代に生きざるを得なかったドイツの文化人は、好むと好まざるとに関わらずナチスとの関係を問われざるを得ません。
クラシック音楽の世界では、70年以上の時が経過しているのに、未だにフルトヴェングラーやカラヤンの責任が問われ続けています。

その関係を大雑把に分類すれば以下のようになるのでしょうか。

  1. ナチスから迫害を受けたために亡命をした人
  2. 迫害を受けたわけではないが、ナチスのやり方が許せないので亡命した人
  3. 亡命はしなかったけれどナチスに積極的に協力はしないで戦争をやり過ごした人
  4. 亡命はせず、生きていくための術としてケース・バイ・ケースでナチス協力した人
  5. 亡命はせず、生きていくための術として積極的にナチスに協力した人
  6. ナチスの党員になった人

カラヤンは(6)ですね。
フルトヴェングラーはギリギリ(4)でしょうか。
ちなみにブルーノ・ワルターは(1)ですし、トーマス・マンやバルトークなどは偉大なる(2)ですね。

この分類を眺めていると、これはナチスとの関係だけに限った話ではないことに気がつきます。
例えば、少し変えるだけでこんな分類も可能です。

  1. 監督から迫害を受けたために退部をした人
  2. 迫害を受けたわけではないが、監督のやり方が許せないので退部した人
  3. 退部はしなかったけれど監督に積極的に協力はしないでやり過ごした人
  4. 退部はせず、生きていくための術としてケース・バイ・ケースで監督に協力した人
  5. 退部はせず、生きていくための術として積極的に監督に協力した人
  6. 監督の手下になった人

これって決してどこか特定の組織を念頭にしているわけではないですから。あくまでも、一般論としてです。(^^;
一般論のついでとして、こんな風にも置き換えが可能です。

  1. 権力者から迫害を受けたために退職をした人
  2. 迫害を受けたわけではないが、権力者のやり方が許せないので退職した人
  3. 退職はしなかったけれど権力者に積極的に協力はしないでやり過ごした人
  4. 退職はせず、生きていくための術としてケース・バイ・ケースで権力者に協力した人
  5. 退職はせず、生きていくための術として積極的に権力者に協力した人
  6. 権力者の手下になった人

そして、時が経て、監督や権力者の悪事がナチスのように露呈した時に、貴方はどこまでの人が許せますかという話なのです。
しかしながら、どこまで許せるかなと考えたときに、それ以前の問題としてそう言う連中の悪事が「私」に及ばないのであれば、そんな事はどうでもいいことに気付きます。

例えば、どこかの大学の運動クラブがどれほど大きな問題を抱えていて、そこでどれほど理不尽なことが行われていたとしても、そんなものとは一切関わりなく生きていくことが可能ならば知った話ではないのです。
そして、そう言う基本的には「知った話」ではない事にあれこれ口を挟むというのは、お節介という域を超えて、ともすれば自分だけは安全な場所に身を置いてあれこれ囃し立てるという「イジメ」における傍観者的立場にどこか似通った部分を内包する恐れがあります。

今の世の中に蔓延する「正義の味方」というものは殆どこういう類のものです。

私たちがナチスとドイツの文化人の関係を良く口にするのは、考えてみれば、それが我が身にとって常に安全な話題だからです。
その証拠に、それと同じほどの熱心さで日本の戦争と文化人の関係を話題にすることは多くないのです。
何故ならば、それは我が身にとって必ずしも「安全」な話題ではないからです。

同じように、ナチスの犯罪性を問題にするのは容易いのですが、それと同じように戦前の軍国主義の犯罪性を取り上げることには躊躇いが生じます。
理由は簡単で、その様な話題になると「我が身」は安全ではないからです。

根性なしでお恥ずかしい限りだニャン

そう考えれば、この問題はどこまで許せるかなどと言うお気楽な話ではなくて、今の社会において自分はどの立場を保持できるのかが問われているんだと言う事に気付かされます。

幸いなことに、私は未だ迫害にはあっていません。
しかしながら、迫害にあっている人のために今の生活をなげうつほどの勇気はありません。
未だ職にあった時は、生きていくためには時には(4)の立場を取らざるを得なかったこともありました。
しかし、職を退いてそれなりの自由を得たのですから、せめて(3)の立場くらいは堅持したいものです。

まあ、何とも根性なしな話ですが、これからの日本の社会ではそれすらも難しい時代が来そうな気がします。

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