名演奏を聴く

こういうサイトをやっているとそれなりにメールなどをいただくのですが、その中で意外と多いのが「クラシック音楽を聞き始めてみようと思うのですが、どれから聞き始めたらいいのかが見当がつきません」と言うものです。何しろ、同じ作品なのに何種類も録音があって、さらにはネットなどを眺めてみればその「優劣」などが熱心に論じられているのです。
そして、安からぬお金をはたいて買い込んだ録音が、そこであまり芳しくない評価が下されていたりするとあまりいい気分はしないものです。

クラシック音楽を聞くのに「蘊蓄」は必要かと言うことがよく話題になります。そして、そう言う「論議」は、つまらぬ「蘊蓄」を頭に入れて聴くよりは、自分の心に対して素直に受け入れる方が大切だという「もっともな結論」で収束するのが常です。
確かに、「素晴らしい作品」「素晴らしい演奏」だから、例え自分の心が「面白くない」と悲鳴を上げていても我慢して聞き続けるなどと言うのは「愚の骨頂」です。しかし、その逆が「真」かと言えば、それは明らかに傲慢に過ぎます。

最近、藤井聡太という存在によって注目を浴びている「将棋」という世界があります。
さすがに、デビューからの29連勝というフィバーの時と較べれば随分と静かになりましたが、未だに彼の動向はワイドショーでも話題となっています。
そして、そう言うワイドショーでの取り上げ方を眺めていて改めて気づかされたのは、藤井聡太の凄さの一端を少しでも理解するためには「将棋」というものに対する「蘊蓄」が絶対に必要だと言うことです。言うまでもないことですが、お昼に何を食べたかというような話題をどれほど取り上げても、藤井聡太という存在の「凄さの一端」すらもかすらないのです。

必要なのは将棋というゲームが持っている基本的な仕組みに対する理解であって、それを踏まえた上で、一手一手の指し手が持っている「価値」をある程度は理解できる能力がなければ藤井聡太の凄みは実感できないはずです。しかしながら、その様なことを「理解」するにはかなりの修練が必要であり、必要であるがゆえに「将棋」というものは限られた世界の中だけでしか認知されないという宿命を背負うのです。
おそらく、藤井がタイトル戦に登場するようになれば再び大きな話題となるでしょう。そして、そこでもまた「将棋」の価値とは無関係な表面的な話題だけが取り上げられることでしょう。
そう言う意味では、将棋や囲碁というのは絶対に大衆化しないのです。しかし、その「基本的な理解」という垣根を乗りこえた人にとっては「永遠に価値ある対象」であり続けるのです。

おそらく、クラシック音楽は、極めて感覚的な世界である「音楽」というジャンルにおいては、もっとも将棋的な世界に近いといえるのかもしれません。
しかしながら、将棋のような世界とは違って、己の感覚だけを信じてクラシック音楽の世界に分け入ることは決して不可能なことではありません。将棋の一手一手の価値を感覚的に理解することはまず不可能ですが、クラシック音楽の凄さを感覚的に理解することは必ずしも不可能ではないからです。

私と違って無愛想なのよ

とは言え、クラシック音楽というのは音楽仲間のなかではかなり無愛想な一族です。
その無愛想さゆえに己の感覚との間に齟齬が生じることもあるでしょう。
そして、その様な齟齬が生じたときに己の感覚だけを優先してしまうとそこに大きな欠落を生じてしまうことは否定できません。そして、己の感覚だけを信じてその欠落した部分を価値のないものだと見なすならば、それは「傲慢」と言われても仕方のないのです。
その「傲慢」をまぬがれるために必要なのが「蘊蓄」なのです。

当たり前の話ですが、心が受け付けないものを世間が評価しているからと言って無理して聞き続けるというのは時間の無駄です。
何処まで行ってもこれが基本です。
しかし、心が受け付けなくても、世間の評価という「蘊蓄」に従って一度は向き合ってみるというのは、クラシック音楽の世界では必要な謙虚さです。
そして、どうしても心が受け付けないのであれば、添うべきは己の心の方です。そして、また少し時を開けて再び向き合ってみれば、ある時突然それは己の心にとってかけがえのないものになることもあるのです。

私はクラシック音楽というものはそれほどに懐の深い世界だと信じています。そして、その様な幸せな出会いは、最初から「蘊蓄」だけを頼りとした教養主義的な聴き方からは生まれないものです。おそらく、クラシック音楽の世界で「蘊蓄」が嫌われるのは、それが「傲慢」から免れるための自戒として使われるのではなくて、「傲慢」を装う「衣装」として使われることが多いからでしょう。

ですから、「クラシック音楽を聞き始めてみようと思うのですが、どれから聞き始めたらいいのかが見当がつきません」と言う人に対して「それではこのあたりから聞いてみませんか」とかえすのがこういうサイトの使命であるのかも知れません。
そう考えて「不滅の名録音~まずは、聞くべし!!」というコーナーを随分昔に作ったのですが、トップページから下の階層へと辿っていかなければいけないというのはそれもまた垣根となるようです。

そこで、「名演奏を聴く~今週の一枚」という形で、トップページで毎週一枚ずつ「それではこのあたりから聞いてみませんか」と紹介していきたいと思います。
それがお気に召せば幸甚ですし、例えお気に召さなくてももう一度くらいは聞き直してみれば、また違う面に気づくことがあるやも知れません。