感動話

感動話が嫌いです。
ですから、妻からも偏屈と言われたりするのですが、それでも嫌いなものは嫌いなので仕方がありません。
難病もの、闘病ものから始まって、動物と飼い主との心温まる交流話までどれもこれも苦手です。さらに言えば、それがドキュメンタリー仕立てに仕上げられていると最悪で、見ていて気分が悪くなるほどの嫌悪感を感じるときもあります。
他にそんな人はいませんか?
何しろ、その手の話を見ていると、いよいよ山場の「泣ける場面」に近づけば近づくほどこちらの心は冷めてくるのですからどうしようもありません。そうすると、「これを見て涙しないあなたは人間じゃない」と言われているような気がしてきて居心地の悪いことこの上なしです。
その居心地の悪さは、どこかのハンバーガー屋の社長が「うちのハンバーガーをまずいというのはゴリラかチンパンジーです」と豪語していた時に、「やっぱり美味しくないなぁ」と独り呟いていた時を思い出させます。
でもだめなんですね、演出家が必死になって、「どうだ、凄いだろう!泣けるだろう!!」と力みかえれば力みかえるほど私の心はしらけていくのです。
そんな人はいませんか?(しつこいって・・・^^;)
ただ、自己弁護のために申し上げておきますが、私は決して血も涙もない人非人ではありません。その事は、家族およびご近所、さらには職場の何人かの同僚達が証言してくれるものと信じています。
さらに言えば、時には心揺さぶる感動的な出来事に出会って涙することもあります。
でも、感動話は大嫌いなのです。
結局、あの手の感動話というのは「ストーリー」なんですね。
まず「現実ありき」ではなくて「ストーリーありき」なんです。
そして、そのストーリーに沿って都合のいい部分は選び取られても、相応しくないものは切り捨てられます。ストーリーと不整合な事実が出てきたときはその事実から学ぼうとせずに無視します。
そして、そのストーリーを盛り上げるために、あれやこれやの場面を偽造したり捏造したりしてるんじゃないの、と言うような疑惑も私の頭の中を駆け回ります。
さらに言えば、そう言うストーリーの大部分はお粗末きわまる「お涙頂戴」の域を出ないのも悲しい限りです。
同じお涙頂戴でも、新派の演劇みたいに最初からそう言うものだという開き直りのなかで、あの手この手で泣かしてくれるのは立派な芸です。しかし、ドキュメンタリー仕立てで何かを告発するようなスタンスを示しながら、その内実がお粗末なストーリー仕立てというのでは嫌悪感を感じても不思議ではないでしょう。
要は、その手の「感動話」からは、現実そのものがもっている多様性や複雑性のなかから事の真実をつかみ出そうという真摯さではなく、ストーリーに沿って複雑きわまる現実を矮小化して恥じない安直さしか感じられないのです。
前者を特徴づけるのが「謙虚」だとするなら、後者の特徴は「傲慢」でしょう。
ですから、100歩譲って、それが最初から「お話ですよ」と言うことでドラマ仕立てならまだしも我慢が出来るのですが、ドキュメンタリー風に仕立てられていると嫌味の二つ三つも言いたくなってしまうわけです。
でも、これってクラシック音楽業界における「演奏」というお仕事にも共通する話ですよね。
「どうだ、この音楽って凄いだろう、感動するだろう!」って雰囲気で力まれれば力まれるほど、聞き手の方はしらけていくというパターンです。これに、「どうだ、俺って凄いだろう!!」などと言う虚栄心が見えたときなどはもう最悪です。
しかしながら、今の世の中はそう言う分かりやすいストーリーに乗って右往左往している風に思えて仕方がありません。今までは白だと思っていたものが、ほんのちょっとしたきっかけで一気に黒に変わってしまうオセロゲームみたいな社会は決してまともな姿だとは思えません。
そして、事実を改竄してでも人を罪に陥れようとした検事さんの話もそう言う社会の危うさを象徴しているように思えて仕方がないのです。
バックハウスのピアノを聞きながら、そんなつまらぬ思いが頭をよぎる今日この頃、三連休の中日です。
<追記>
つまらぬ毒を吐いてから、カメラをぶら下げて散歩に出かけた。ヒョウモンチョウが飛んでいたのでぱちりと一枚写真におさめた。
ヒョウモンチョウはどれもこれもよく似ているので、私の能力では種類までは特定できません。でも、何のストーリーがなくても自然はあるがままの姿で美しい。
20101010-hyoumon.JPG
ついでにもう一枚、これは間違いなくモンシロチョウだな。
20101010-Monsiro.JPG

7 comments for “感動話

  1. シューベルティアン
    2010年10月10日 at 3:00 PM

    わたしは新聞なんかよんでいても、しばしばあなたのいう嫌悪感を覚えます。ひねくれものといわれるのは残念ですが、いやなもんはいやだ! もんくあるか、と。
    動物や自然をドキュメントした番組でも、最後に情念ほとぼしるようなオーケストラ音楽が決まって流れるのが「うるさい」と感じます。弱肉強食や、生死のメカニズムをなんでこんなふうに美化しなけりゃならんのか?
    どうしても理解できない何事かにぶつかって、呆然とする、途方に暮れるというのは、人間独特の経験ではないかと思います。その状態を「わるい」と見なされるのは残念です。
    一人きりで途方に暮れるというのは、なかなか意味あることだと思う。言葉を失うということ。どうしても一般化できない個人的な経験をもつこと。芸術の源泉もそこにあるのでは? と思ったりします。
    言葉を失う、途方に暮れるということを、世間は嫌うようです。どうして世間と折り合えばいいのか、凡夫のわたしでも迷うものです。

  2. PhiloSophia
    2010年10月10日 at 7:19 PM

    「感動話」は、本当の感動を、「うそ」にしてしまいますよね。。
    写真は、ツマグロヒョウモンと思われます。
    もともとは南方系の蝶でしたが、最近は関東近辺でも見かけるようになりました。

  3. シューベルティアン
    2010年10月10日 at 7:45 PM

    「異邦人」の後記でカミュは
    母親の葬儀で涙を流さない人間はすべて死刑を宣告される恐れがある。
    わたしの主人公は演じることをしない。さりとて人間の屑ではない。
    こんなことを書いていました。
    演じることをしないのはバックハウスや、アンセルメの表現にも通じることだと思いますね。彼らの表現は、想像や解釈によってわかった「つもり」にならない率直さに魅力があると思う。ああいうものが受容される大らかな時代だったのでしょうか。それとも反対に、時代があまりにも全体主義的だったのでああいう表現に心が向いたのでしょうか。

  4. yk
    2010年10月14日 at 11:06 AM

    チリ落盤事故で全員救出に成功。
    このニュースも大半は”感動”をもって受け止められていたが、中には必ずしも”感動”とまでは行かない人もいるようではある。”良い・悪い”とは”全く関係なく”人それぞれと言うことのようではある。”感動”には物理的な”事実”だけではなくそれを受け止める人間のバックグラウンドの全てがパラメータとして関与しているので、それも当然とも思う。
    それに、人間の意識の”外部”から情報として入ってくる”事実”自身も、人間には単なる光・音波と言った単純な物理現象として作用するわけでもなくて、必ず”認識”と言った心理操作が加わることを考えると、「如何なるノンフィクションにも多少のフィクションが紛れ込み、如何なるフィクションにも多少のノンフィクションは含まれている」だろうことは想像に難くない。その意味では、ノンフィクションとフィクションを峻別して感動の目安とする一般的・普遍的な線引きをするのも難しかろうとも思う。
    確かに、”安っぽい”感動が巷には溢れているし、その弊害と言ったものもあるのも確かなように思うけれども、感動はやはり個人的な”好き・嫌い”の範疇をはみ出して評論するのはなかなか難しい。

  5. ろく
    2010年10月17日 at 4:19 PM

    音楽の話題ではないですね。少々失礼します。
    ユング君の本文を読んで、少なからず安堵しています。「分かる人はちゃんといるんだな」と思いました。
    私はある病との闘病の経験があります。完治に足かけ5年かかりました。
    ユング君も仰る通り、実際の闘病は、テレビなどで放送されるものとは随分違います。現実はもっと非感傷的です。「感動話」の番組でよく流される「生命の尊さを感じて流す美しい涙」は、第三者、部外者だから流せる「余裕の産物」でしょう。「自分が死ぬかもしれない」といった状況では、涙はあまり流れません。もし流れたとしても、もっと生臭いものです。
    その上、私の闘病の話をすると、テレビ番組のゲストの芸能人たちが見せるものと全く同じ反応が、聴き手から返ってきます。そこにあるのは、共感ではなく、他者憐憫です。体験をシェアしようという思いも姿勢も感じられず、ただオーディエンスとして鑑賞されているかのように感じられます。テレビや映画ならそれでもいいのかもしれません。ただ、私は人間ですから、そういった反応をされると、自分が酷く惨めで不幸であるかのように感じられてしまいます。
    ですので、最近はまず闘病の話はしません。分かってくれる人さえ分かってくれればいいと思っています。
    …ムキになってしまいました。もうすこしオトナにならないといけないですね。乱文失礼いたしました。
    p.s.バックハウスならばベートーヴェンのピアノソナタop110が好きです。真の感動とはこういうものをいうと思いますが、いかがでしょう?

  6. ユング君
    2010年10月17日 at 6:57 PM

    5年前に父が肺ガンであることが判明しました。それから足かけ2年の闘病で父はこの世を去りました。
    さらにはそれをきっかけに母が倒れて、この3年間は介護生活です。くわえて、妻の母も90歳を前に体調を崩してこれまた介護生活です。
    全くもってこの5年間は、介護、介護の生活です。それはそれは、ありとあらゆる理不尽と感情の行き違いに満ちた、感動のかけらもない現実の連続でした。
    そんな時に、「感動的な介護」の話などをテレビで見ようものなら、「嘘つけ!!」と叫んでいました。(^^;
    ただ、心配するのは、そんな感動話を見て、自分は人間として失格なのではないか?等と真面目に悩む人がいたら、その手の感動話はもう「犯罪」ですね。
    あたしゃ、そう思いますよ。

  7. シューベルティアン
    2010年10月17日 at 8:23 PM

    介護職をやって半年になるのですが、「理不尽と感情のゆき違い」というのは常ににありますね。認知症の年寄りに本気で腹が立つこともありますし、こちらの都合を向こうに押し付けるようで心苦しいこともあります。
    論理的に理解できるものなど、ほとんどありません。どうしていいのかわからないで途方に暮れるか、どうしていいのかわからないままその状態を受け入れるか、ふたつにひとつしかないと思います。
    利用者本位の介護というのは、人々のイメージのなかにしかないものではなかろうかと思います。慈善というよりも、ぼくの感じとしては訪問販売に似たものです。お客様の満足だけを願っておりますなんて空々しい文句を吐きながら、施設の利益だけを鬼のように追求するものです。
    呆けた老人の気持ちを察するのはむりかと思います。ただ自分として心苦しくないように、できるならば(心の姿勢ひとつで可能なように思われるのですが)楽しく介護することに留まります。なんにしても自己本位であるには相違ないので、涙を流して感動するようなことじゃあない。

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