PCでオーディオをやる意義(3)

前回までは、PCオーディオに伴う「技術的困難さ」についてタラタラと書いてきました。
今回は、いよいよ「核心部」である(^^;、「では、そう言う困難さの伴うPCオーディオになぜ取り組むのか?」についての私見を述べていきたいと思います。
ただし、最初に申し上げておきますが、この「私見」はかなり「開き直った」性質のものなので納得のいかない方も多いかと思いますので、そのあたりはご容赦のほどを。
まず、結論から述べれば、PCオーディオに取り組む理由は二つあげられます。
まず、一つめは音がいいからであり、二つめは趣味性が復活したことです。
まず最初の「音がいい」からと言う理由について述べてみたいと思います。
この理由においてもっとも重要なのは「ファーストインプレッション」です。
私の場合におけるPCオーディオのファーストインプレッションは、仕事で使っていたPCに「Roland UA-30」というインターフェイスをつないで、メインシステムのDAコンバーターにつないだときのものでした。
Roland UA-30
もともとは、アナログレコードの音源をデジタル化してPCに取り込むのが主たる目的だったのですが、その頃既に「PCオーディオ」と言うことが主張され始めていたので、ものは試しと思ってCDをリッピングしてPCから音楽再生させてみたわけです。
その時の「驚き」は今も鮮明に思い出すことができます。
それは、良いとか悪いとか言うことではなく、今まで聞いたことのなかった類の音でした。その時の感想をどこかに書いた記憶はあるのですが、どうしても探し出せないので、記憶をたどりながら再現するとざっとこんな感じだったと思います。
「今までは一つの音の塊として聞こえていたものが、一人一人のプレーヤーが演奏して一つの響きとなっていることが分かるようになりました。これは、COプレーヤーを使って再生していたときには絶対に経験することのできない音の世界でした。」
これをもう少し分析的に振り返れば、情報量が増えて解像度が上がったと言えるのでしょうか。しかし、そんな細かいことはどうでもいいことであって、もっとも重要なことは、この最初の出会いにおいてPCオーディオに「可能性」が感じられたことでした。
一番最初に、PCを使って本格的なオーディオ再生を行おうと思った人がだれなのかは今となっては分かりません。おそらくは、同じような時期に少なくない人が同じようなチャレンジを始めたのではないだろうかと想像されます。そして、彼らはそのチャレンジによって、今までのCDプレーヤーを使った再生とは全く雰囲気の異なる世界を作り出すPCオーディオの世界に驚きを感じ興奮もし、そして大いなる可能性を感じ取ったはずです。もしも、そこに驚きも興奮も存在しなかったならば、おそらく「PCオーディオ」などと言う概念は生まれなかったでしょう。しかし、少なくない人々がそれを感じ、そして可能性を信じたのです。
そして、この「可能性」を感じとった人々は、その「可能性」のよって来るべき根拠を明らかにするために様々な「理論」をひねり出していきました。
それは、PCオーディオの正当性を担保するためにも、そして何よりもPCオーディオの今後に向けた方向性を見定めるためにも必要な作業でした。
しかし、今から振り返ってみれば、この「理論づけ」には様々な過ちや思い違いが存在したことは明らかです。さらに言えば、現時点におけるあれこれの「理論」もまた多くの誤りを内包していないとは言い切れません。なぜならば、未だにPCオーディオは「黎明期」なのです。
しかし、PCオーディオが普及していく過程においてもっとも大きな「過ち」となったのはそのような個々の理論の誤りではなく、「音の変化」→「理論的な根拠づけ」というベクトルがいつの間にか「理論的な根拠」→「音がいい」というようにひっくり返ってしまったことです。
つまり、本来は再生にPCを導入することで音が変化したことに驚きを感じ、その変化の根拠としてあれこれの理論づけが探られていたものが、いつの間にか、かくかくしかじかの理論的根拠があるゆえにPCオーディオは音がいいと言う風にベクトルがひっくり返る形で「流布」がなされたことです。
これを私は「PCオーディオのイデオロギー化」と呼びたいと思います。私もそのような書き方でPCオーディオを推奨してきたことは否定できませんから、その罪の一端を担っていたことになるのですが、新しい概念が市民権を得るためにの「必要悪」という側面もあります。
当然のことながらこのような「イデオロギー化」は従来のオーディオ派からは反感と批判を招きましたし、今も招き続けています。しかし、もっとも不幸だったのは、そしてこのような書き方をすると不思議に思われるかもしれませんが、「音がいい」というふれこみでPCオーディオに参入する人々が劇的に増えていったことです。
もちろん、参入することで「音がよくなった」と実感できた人は何の問題もありません。
問題は、
音がよくなるはずのPCオーディオを導入したにも関わらずちっとも音がよくならないことに「思い悩む」人が増えていったことです。
イデオロギー化とは「信ずるものは救われる」という世界ですから、「信じているにもかかわらず救われない」となると、己の「信心の至らなさ」を思い悩むことになってしまいます。「音がよくなる」というふれこみのもとで紹介されるあれこれのノウハウを試したり、高額な機器を買い込んだにもかかわらず己の正直な「ココロ」は少しも音がよくなったとは思えないというのは、実に不幸な構図です。
そして、ついには「PCでオーディオをやる意義はどこにあるのだろうか?」という根源的な疑問に突き当たることになります。
しかし、こういう問いかけが出てくると言うことは、既に「イデオロギー化の泥沼」に足を取られていることの証左です。つまり、ベクトルの方向性がひっくり返ってしまっているのです。試してみて結果がよくなければ、己の「ココロ」に正直になってそんな信心などは捨ててしまえばいいのです。自分の「ココロ」が拒否するもののためにイデオロギーに殉じていられるほど人生は長くありませんから。
ネット上の情報と日々接していて、PCオーディオに対する疑問や批判は、基本的に旧来のオーディオ派から発信されるものと、この「イデオロギー化」の泥沼に陥っている中から発信されるものの二通りがあるように思います。
前者に関して言えば、全くの見当違いのものも少なくありませんが、逆に長年の経験と知識に裏打ちされた傾聴に値するものも多くあります。しかし、後者に関して言えば、何もそこまで無理してPCにこだわる必要がどこにあるのかなと思ってしまうものが少なくありません。
確かに、理論は必要であり重要なものです。
しかし、それはあくまでも最初に感動と驚きがあり、その感動と驚きをより拡張していくための指標として存在するものです。ですから、PCオーディオの世界に参入してみても、何の驚きも感動も感じられなかったのならば、そんな世界からはさっさと背を向けて退場するのが得策です。
どのような世界でも同じ事だと思うのですが、まずはじめに何らかの感動と驚きを実感できたならば、初めて「ウェルカム」となるのではないでしょうか。つまり、「アタマ」ではなく「ココロ」から入ることが必要なのだと思います。「ココロ」が拒むものと無理してつきあう必要はないのです。
PCオーディオに取り組む理由として「音がいいから」という理由は概ねこういう文脈上において理解していただければと思います。最初に述べたように、「開き直った」性質のものなので納得のいかない方も多いかと思いますが、そのあたりはご容赦のほどを。
次回は、趣味性について述べてこの項の締めくくりとしたいと思います。

1 comment for “PCでオーディオをやる意義(3)

  1. @manamana36
    2011年5月22日 at 2:22 PM

    こんにちは。
    更新を楽しみにしている読者です。
    >「音の変化」→「理論的な根拠づけ」というベクトルがいつの間にか「理論的な根拠」→「音がいい」というようにひっくり返ってしまったことです。
    →PCオーディオという、新しい音楽再生ジャンル「も」このドグマに陥ってしまうと、かつてのオーディオが陥った、「いかなる周波数帯域もフラットな再生音」と同じ轍を踏みかねません。電気的特性が優れているのだから、その出力としての再生音は良い「はず」だ、というアレ。
    録音を行うときには、16bitなどと言わず20bitのハイビット・サンプリングが当たり前になっていて、そこで録られた音を16bitの規格の縛りを受けず、損失なく再生可能なPCオーディオには、高いポテンシャルがあると感じてはいます。けれども取っ掛かりがないので躊躇している現状(これは私だけではないはず)。
    国内ハイエンド・メーカーのLuxmanがUSB付きDAコンバータを発売していますので、流れは悪くないと感じてますが、デジタル出力はWindowsベースになるのかなという懸念は捨て切れませんね。
    ただ、拝読していて、Linuxを勉強してみようかな、と少しだけ思い始めました。
    乱文乱筆ご容赦。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です