“モーツァルト没後200年を意識しながら制作が進行、熱心なモーツァルティアンの絶賛を集めた純ドイツ風ピリオド演奏による素晴らしい名演の数々がまとめて復活。”
ペーター・ノイマン/モーツァルト:ミサ曲全集(10CD)
私は古楽器による演奏というのは基本的に嫌いです。とりわけ、これこそが作曲家の意図に最も忠実な「正しい」演奏だなどと主張するようなものに出会うと、心の底から嫌悪したものです。
もっとも、最近はそのような馬鹿げたことを振りかざすような輩は絶滅しましたが、古楽器演奏が大きなムーブメントとして盛り上がっていった当初には、音楽を「正しい」か「正しくない」かで切って捨てるような物言いが堂々とまかり通っていたものです。
そして、情けないのは、そう言う「物言い」に怖じ気を感じてヨーロッパからアメリカへと鞍替えした大物指揮者が何人もいたという事実です。
最近は古楽器演奏というムーブメントも一段落して、ピリオド演奏も数ある演奏解釈の一つとして、その成否は聞き手にゆだねるという当然の姿に落ち着きつつあるように思えます。
そして、そう言うスタンスで大量に生産された古楽器演奏を振り返ってみると、後世に残すだけの価値のある演奏はそう多くないという「当然の事実」に突き当たります。
まあ、この辺の価値判断も聞き手によって大きく異なるのかもしれませんが、私にとってはその数はきわめて少ないです。異論は当然あるでしょうが、ブリュッヘンもガーディナー(あの幻想は酷かった・・・と私は確信しています)も世間が言うほどには喜ばしい演奏とは思えません。
そんな中で、掛け値なしに気に入ったのが、このノイマンによるモーツァルトのミサ曲集です。それは、おそらくこれらが基本的に「声楽曲」であり、オーケストラはそれを控えめにサポートするというスタイルに起因しているのでしょう。
たとえばあの有名なベームのレクイエムなどを聴くと、それはまぎれもなく壮麗なオーケストラ曲として立ち現れます。しかし、このノイマンの手になるレクイエムを聴いたときに、「そうかレクイエムというのは声楽曲だったのだ」という当たり前のことに気づかされてくれます。
私の手元にあるCDは5枚セットで「モーツァルト:ミサ曲選集」と題されたものです。それが、今回10枚セットで全集として再発され、おまけにこれもお約束のように2860円という格安価格です。
ダブり率50%なのですが、これも迷いながら注文することになりそうです。
こんにちは。現在音楽大学の大学院に通う者です。
これも個人的な見解ですが、ベームのモーツァルトなどは
今の音楽家(音大生だけじゃなく、先生方)からすると
「もったり」「もっさり」していて聴けたもんじゃない
…という感覚があるように思います。
(面白いことに、ベートーヴェンでは
ベームを良いと感じる若い音大生が多いです。)
かと言って、古楽家がない音大では
ピリオド系もそれほど盛んではありません。
最近の指揮科の学生を見ていると、
カラヤンに憧れる学生は殆どいませんが、
バーンスタインに憧れて指揮を志す学生は未だに多いです。
ただ、いわゆる「巨匠系(フルトヴェングラーからざっくりとバーンスタインまで我々の世代の場合は括ってしまいますが)」に憧れて入学した学生は、どうしても自分が憧れる先人の音楽づくりから抜けられず、パッとしないからか、結果的にはプロの演奏団体からの仕事もあまりこないような人ばかりであるように感じます。
私個人はフルトヴェングラーを素晴らしいと思うこともありますが、
古典派の素晴らしさを教えてもらった!
…と感じたのはガーディナーとアーノンクールです。
それまで「ダサい」としか思えなかったハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンがこれほどまでに刺激的でエキサイティングな音楽だったのか!と開眼させられ、今に至ります。
しかし、彼らの音楽をオリジナルとは微塵も感じていません。
特にガーディナーのベートーヴェンはとても古楽的とは言い難いと思います。あれはガーディナーの音楽でしょう。でも私はあのベートーヴェンが大好きです。オリジナルだから、ピリオドだから良いんだ!…なんて思ったこともありません。
作曲でも演奏でも(音楽の)研究でも、
時代の流れにあらがうことは困難です。
でも、「伝統」という言葉もウソです。
「伝統」なんてものは19世紀末か20世紀前半で途切れています。
だから、最終的には、個人が「選択」するしかないはずです。
これは「個人主義」といった問題ではなく、
哲学的な領域(フランスの「ポストモダン」、イギリスの「カルチュラル・スタディーズ」以降)では自明とされていることですが、
一般的な感覚として共有されていないのが残念ではあります。
私はピリオド楽器好きですよ。
正しい、正しくないという基準からではなく、単純に音が好きだからです。
どうも私はピアノやヴァイオリンのキンキンした高音がダメなようで
聴くのに大変苦労していたのですが、ピリオド楽器に出会ってからはそれが解消されました。
少しばかり調べてみますと、どうもモダン楽器は当時の楽器の音を
「より大きく、より響くように」という考えのもと作られてきたものみたいです。
その結果、ヴァイオリンの弦は、ガット弦ではなくスチールやナイロン弦、
ピアノのフレームは木製ではなく鋼鉄製といった具合に、金属製の素材を多く使うように
なっていきました。これによって、大きく響く音を手に入れることはできたのですが、
その副産物として金属製特有のキンキンした耳に痛い音が出やすくなってしまったようです。
それを鋭く感じ取り、なるべくそういった音を出さないように配慮している演奏は
よく見かけるのですが、やはり私には基本的にそりが合わないようで、
ガット弦や木製フレームの丸く温かみのある音を好んで聴くようになっていきました。
時代考証の事などはよく分かりませんが、私にはこれだけの理由で十分です。
例えばベートーヴェンですと、ロナルド・ブラウティハムのピアノ独奏、
ジョヴァンニ・アントニーニの交響曲、寺神戸亮のヴァイオリンソナタ、
モザイクカルテットの弦楽四重奏曲などがいいように思います。
yungさんのピリオド楽器嫌いは筋金入り?(笑)のようですが、
もし聴かれたことがなければ、これらの演奏などを聴かれてみてはどうでしょうか。
ホグウッドのモーツァルトやハイドンの交響曲。おそらくyung様のお嫌いな、無味乾燥と思われるであろう演奏ですが私は今でも楽しんで聴いています。何もしていないのが良いというんでしょうか、モーツァルトの交響曲で手が伸びるのはワルターのステレオ盤(これは刷り込み)にクリップス、それにホグウッドですね。リピートをしつこく励行しているのもいつまでも音楽が続いてくれそうな気がしまして。
コープマンによるモーツァルトのK136-138の3曲。こんな前途洋々たるモーツァルトにはお耳にかかっていないと言っても良いくらい。
以上はプラス印象の代表。次にマイナスのものを。
ホグウッドの「エロイカ」。たまたま同時期にセルの「エロイカ」を聴いたのですが、セルの演奏に何か付け加えることがあったのかしらと思ってしまいました。もっともこのディスクのおかげでピリオド楽器による演奏も解釈の一例、と突き放して考えることができるようになりましたが。
ガーディナーの「第九」。あるインタビュー記事でガーディナーがカラヤンをこき下ろしていましたが、この「第九」での見得の切り方はカラヤンそっくり。言うてることとやってることがちゃいますがな。「幻想」についてはyung様と同意見です。
それからアーノンクール。どうもこの人の演奏は何を聴いても「鬼面人を驚かす」ためにやっているとしか感じられません。
概してアーノンクールやクイケン一族に代表される大陸系のピリオド派の人たちは音楽を楽しんでいないような気がしたものです。ビルスマやコープマンあたりになると変わってきますが大御所のレオンハルトも「謹聴」しないと叱られそうですし。
逆にビオンディあたりの世代になると、楽しんでいるのはわかりますがちょっと独りよがりではないかと…。