F=ディースカウ/シューベルト歌曲全集

フィッシャー=ディースカウが生涯に渡って最も力を入れて取り組んでいたのがシューベルトの歌曲であることはよく知られており、数多くのレコーディングも残されていますが、中でも特に高く評価されているのがこのドイツ・グラモフォンへの全集録音です。

1965年から1972年にかけてセッション・レコーディングされフィッシャー=ディースカウの名を一躍世界的なものにしたこの全集は、一貫してジェラルド・ムーアがピアノ伴奏していることも注目されるポイントとなっています。

シューベルト歌曲全集 フィッシャー=ディースカウ(21CD)
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オーディオシステムを調整するときに女性の声は必須アイテムです。言葉をかえれば、女性の声が美しく再生できないオーディオシステムなんぞはこの世に潜在する価値がないと言い切っていいと思います。
それだけに、シュヴァルツコップやテバルディなどの訃報に接すると感慨深いものがありました。
しかし、音楽史における存在意義(そんなものがあればの話ですが)から言えば、フィッシャー=ディースカウの存在は彼女たちよりも大きかったはずなのに、その訃報に接しても私の心はほとんど動きませんでした。
有り体に言えば、シュヴァルツコップの「最後の4つの歌」などをココロふるわして聞いたことはあっても、ディースカウの冬の旅に感心はしても、ココロふるわせることはなかったからでしょう。

クラシック音楽の世界において、どうも「歌手」という存在は一段低く見られてきた節があります。
音楽家のヒエラルキーというものがあって、例えばコダーイなどは(半分は冗談でしょうが)、まずは一番上に作曲家がきて、その下に指揮者がくると主張しています。無から有を生み出す創造者とその僕たる指揮者がこの世界の天上に君臨すると言うことなのでしょう。
そして、コダーイはその下にピアニストを持ってきます。理由は10本の指を駆使してオーケストラにも負けないような音の世界を作り出せるからだそうです。そして、さらにその下に弦楽器奏者がきて、管楽器奏者、打楽器奏者と階段が下りていくそうです。
そして、彼は声をひそめてこうつけ加えたそうです。

諸君、さらに、この下に位置する音楽がいるのです。
それが歌手です。

真偽のほどは定かではありませんが、これがまことしやかに語り継がれてきたと言うところに、歌手というものの占める位置が分かろうかというものです。

そして、フィッシャー=ディースカウという歌手はそのように虐げられてきた歌手というもののポジションを大きく引き上げた存在だったと言えます。
そう言えば、クレンペラーという狷介な男は事あるごとにディースカウをコケにしました。もしかしたら、彼には「歌手風情が何を偉そうに」という思いがあったのかもしれません。しかし、ディースカウはそう言う嫌がらせにも屈せずにコツコツと己の地歩を固め引き上げていきました。
そんな彼の「努力」の集大成がこのシューベルトの歌曲全集でしょう。

そして、その集大成が、彼の死によって4K円を切る価格でたたき売られると知ればディースカウはどう思うのでしょうか。
正直申し上げて、私はディースカウの歌はあまり好きではありません。彼の歌を聴くと感心はするのですが、なんだか教室でお勉強をしているような心持ちにさせられるのです。感心はしてもココロをふるわせることはないとなると、なかなか手の伸びる全集ではありませんでした。
しかし、4K円となると、やはり手元には置いておきたいですね。

ディースカウには申し訳ないですが・・・。

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