マールボロ音楽祭でのゼルキンの演奏をアップしたときに、「その後にゼルキンとセル&クリーブランド管によるモーツァルト聞いてしまうと、ここがゴールではなくてスタート地点であることもはっきり分かってしまいます。」などと書いておきながら、ゼルキン&セルの録音をアップしていないことに気づきました。
かなりおかしな連想なのですが、このセル&クリーブランド管にバックアップされたゼルキンの演奏を聞いてふと頭によぎったのは、セルって藤山寛美みたいなおっさんやなぁ・・・ということです。
今時、藤山寛美と言っても「それ誰?」という若い人も多いでしょうが、50代以上の大阪人ならば何とも言えない懐かしさを持って思い出すことができるでしょう。土曜日の半ドンの授業を終えて大急ぎで帰ってくれば吉本新喜劇をみることができましたが、大人達はその後に放送される松竹新喜劇の方を楽しみにしていました。
その松竹新喜劇を率いたのが藤山寛美でした。
ドタバタ喜劇の吉本新喜劇と違って、松竹新喜劇は人情噺の中に絶妙なアドリブによる笑いが散りばめられていて、子供心にも「格」が違うと感じたものでした。
しかし、ものの分からない子供をも感心させる背景には、とんでもなく厳しい稽古があったこともよく知られています。
そして、思うように演じられない劇団員に対して、寛美が浴びせかけていた言葉は「オレはいくらでもシンボするよ!そやけど、お客さんはシンボしてくれへんのや!」でした。
どこかでセルもまた同じようなことを言っていた記憶があります。
確かに、マールボロ音楽祭でのモーツァルトは実に素晴らしいものでした。そこでは、聞き手のことなどは眼中になく、自分たちが音楽を「する」事に喜びに満たされていて、そして結果としてその喜びが聞き手にも伝わるという希有な例でした。
しかし、「芸」としての音楽は、金を払って聞きに来た聴衆を満足させてこそ本物です。
そこでまた、思い出すのが、確かモーツァルトの没後200年の時に制作されたヨーロッパのドラマです。
その中で、モーツァルトがバッハのフーガの技法を見せられるシーンがありました。そのスコアを食い入るように見つめながら、「凄い!!バッハは誰のためでもなく自分のために音楽を書いている」と驚嘆します。
すると、そのスコアを持ってきた男性はモーツァルトに問いかけます。
「羨ましいかい?」
しかし、それに対するモーツァルトの答えは明確でした。
彼は「いーや!!」と答えて不敵にニヤリと笑みをもらすのです。
「芸」は、そして「音楽」もまた、それは聴衆の存在を必要とし、それは「見られる(聞かれる)」事によってのみ完結します。
そう言えば、藤間寛美の娘の直美が、笑いには「間」が重要であり、その「間」の取り方を判断するには瞬発力が必要だと語っていました。そして、その瞬発力が無くなったときが引退の潮時だとも明言していました。
その言葉を受けたアナウンサーが適切に言葉を継いでくれました。
「それでは、その時はどうして判断されるのですか?」
それに対する直美の答えも実に明確でした。
「そんなモン、私が判断せんでもお客さんが教えてくれますヤン!」
どれだけお客さんが引退の時を教えても、現役にしがみつくことの多いクラシック音楽業界には耳の痛い話でしょう。