バッハの壊れにくさ~カラヤンのバッハを聴いて

カラヤンは疑いもなく20世紀を代表する偉大な指揮者の一人です。しかし、何故かその評価に関しては二分されます。中には、アンチ・カラヤンこそがクラシック音楽を深く理解していることの証しであるかのように信じておられる方もいるようです。
「いるようです」という婉曲な表現をしたのは、次第にその様なスタンスをとられる方が少なくなってきているように見受けられるからであって、一昔前ならばそれは一つの「常識」ですらありました。

カラヤンを、その一昔前の偉大なマエストロ達と較べてみると、誰もが見ただけで分かる違いが一つあります。
それはレパートリーの広さです。

サンモリッツでの録音風景

昔の偉いマエストロ達は、驚くほどにレパートリーが狭いのです。こう書くと誤解を招くかもしれないのでもう少し丁寧に表現すると、実際の演奏の場で取り上げる作品の数がとても限定されるのです。
例えば、フルトヴェングラーと言えばベートーベンとなるのですが、よく知られているようにその9曲ある交響曲を満遍なく演奏会で取り上げているわけではありません。どちらかと言えば奇数番号の作品は頻繁に取り上げているのですが偶数番号の作品に関してはそれほど熱心ではありません。とりわけ2番の交響曲はほとんど取り上げていません。
さらに酷いのがクナです。もちろん例外はありますが、ブルックナーやワーグナー以外には基本的に興味がなかったように見えるほどの頑なさです。

それらと較べると、カラヤンの守備範囲の広さは驚異的です。幾つかの例外はありますが、基本的にはバッハからシェーンベルクまで、好き嫌いなく満遍なく取り上げているのが特徴です。そして、クラシック音楽の世界で「バッハからシェーンベルクまで」という表現はほぼ全てを網羅しているという比喩表現となるのですが、彼のディスコグラフィを調べてみるとバッハ以前のモンテヴェルディの歌劇(ポッペアの戴冠)なども取り上げているのですから大したものです。

そして、このようなカラヤンのスタンスが、その後の指揮者のあり方を根本から変えたとも言えます。
カラヤン以前は、偉いマエストロともなれば自分の十八番の芸を披露してくれるだけで満足すべきものだと考えられていました。しかし、カラヤンは聞き手の要望に応えてあらゆる作品をそれなりのクオリティで提供して見せました。そうなると、彼に続く指揮者はそれを見習わなければならなくなったのです。

指揮者というのは大変な仕事です。
カラヤンよりは一世代前に属するミュンシュでさえ、「指揮者というものは音楽院の門をくぐったその日から、疲れ果てて最後のコンサートの指揮棒を置くその日まで勉強を続けなければいけない」と語っているのです。ミュンシュは、フルトヴェングラー等と較べればかなり広いレパートリーを持っていましたが、それでも「ベルリオーズのスペシャリスト」と思われる向きもありました。
つまりは、ある程度の集中と分散があったのですが、それがカラヤンとなると特定の分野に集中することはなく、かわりにあらゆる分野にわたって「欠落」と思われるような部分をうまないように目配りをしていたのです。

カラヤンという人は己の努力をしている姿を絶対に見せることなく、その大変なことをいとも容易く成し遂げているかのように振る舞い続けた男でした。
しかし、ミュンシュが語っているように、それは涼しい顔をして容易く成し遂げることが出来るようなものでないのですが、それでも格好をつけて常に涼しい顔をし続けた男だったのです。

これは実に持って驚くべき事です。
しかし、そうやって広大なレパートリーを築き上げていけば、そこにある程度の出来不出来が生じる事はやむを得ないことでした。
そして、その不出来の象徴のように常に槍玉に挙がるのがバッハでした。

何故か?
それは実際に聞いてみればすぐに納得がいきます。

Johann Sebastian Bach

この時代、バッハというものは厳しい音楽であり、その厳しさの中から多くの人は深い精神性を感じとっていたのです。もっとも、こういう抽象的な言い方をしなくても、その典型であるリヒターのバッハ演奏の幾つかを聞いてみればすぐに納得できるはずです。もしくは、シゲティの無伴奏を聞いてみればいいでしょう。
そう言うバッハと較べれば、カラヤンのバッハは常に美音で美しい旋律ラインを描き出してみせる演奏でした。口さがない連中はまるでイージー・リスニングみたいなだとか、ムード音楽みたいなバッハだと言いました。
そして、その一つの典型がここにあります。

バッハ:ブランデンブルク協奏曲 カラヤン指揮 ベルリンフィル 1964年~1965年録音

  1. バッハ:ブランデンブルク協奏曲第1番 ヘ長調 BWV1046
  2. バッハ:ブランデンブルク協奏曲第2番 ヘ長調 BWV1047
  3. バッハ:ブランデンブルク協奏曲第3番ト長調 BWV1048
  4. バッハ:ブランデンブルク協奏曲第4番ト長調 BWV1049
  5. バッハ:ブランデンブルク協奏曲第5番ニ長調 BWV1050
  6. バッハ:ブランデンブルク協奏曲第6番変ロ長調 BWV1051

この6曲からなるブランデンブルグ協奏曲は、まさにその様なムード音楽のようなバッハです。ここにはバッハが持つ厳しさは欠片もなく、全てがふんわりとした美しい響きの中で時間が流れていきます。ですから、これを、これからバッハを聴こうとする人に対するファースト・チョイスにするつもりはありません。

しかし、それではこれはバッハの音楽ではないのかと聞かれれば、それもまた少し違うように思うのです。
驚くべきは、バッハの音楽の壊れにくさにくさです。

この美しさの中でたゆたう音楽もまた疑いもなくバッハです。この美しさもまたバッハという音楽の抽斗の中から持ち出してきたものであり、それ故にこれもまたバッハなのだと納得させてくれる演奏であることは否定できません。

なお、カラヤンはこの後映像作品としてもこのブランデンブルグ協奏曲を取り上げているのですが、そこでは自らがハープシコードを演奏しながら指揮をしていました。しかし、この64年から65年にかけての録音では、ハープシコードはアクセンフェルトに任せて、自らは指揮に専念しています。
このあたりの使い分けが「格好つけ」として嫌われる要因になっているのかもしれません。
さらに言えば、この録音は6番を除くと夏の休暇中にスイスのサンモリッツで行われています。
汗水垂らして必死で努力している姿は絶対に見せない男だったのですが、それを最後まで貫き通したところにこの男のもう一つの凄さがあると思うのですが、闘魂と根性が尊ばれる国ではそれもまた嫌われる要因になってしまったのかもしれません。

1件のコメント

  1. バッハって、不思議な作曲家だと思います。
    グレン・グールドは、バッハ大好き男。
    ジャック・ルーシェやスイングル・スインガーズのバッハも、バッハであることをやめようとはしない。
    ジャズやロックも受け入れてしまう、抽象的な音楽なのだって、浅田彰や坂本龍一も語っていました。
    カラヤンのバッハでは、管弦楽組曲第二番のアリアが、物凄いなって、私は感じています。
    弦の重ね方が、ポピュラーのムード音楽そっくりに、旋律の輪郭が見えないレガートです。
    ボーイングは、少しずつずらしているんじゃないかと思います。
    好き嫌いでは測らず・・・そういう音楽現象があったのだけれど、バッハは依然として魅力的でした。

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