エンターテイメント性の果てで作品を追求する~カラヤンの偉大さ

「作品」と「演奏」は二択の関係ではなくて、分かちがたく結びついていることは理屈としてはおそらく100%正しくても、現実の中においてみると少なくとも二つの問題は避けて通れないことに気づきます、と書きました。
そして、文章が長くなることを考慮して、取りあえずはそのうちの一つである聞き手の「辛抱」に関わる問題だけにふれました。

今回も引き続き、「辛抱」に関わる問題について考えてみたいと思います。

クラシック音楽のコンサートほど「辛抱」を強いられる場はありません。その辛抱にはいろいろあるのですが、その最大の「辛抱」は、演奏がどれほど面白くなくても最後までつきあうことを要求されることです。
もちろん、クラシック音楽のコンサートは「強制収容所」ではありませんから、つまらなければ途中で席を立っても罰せられることはありません。
しかし、私の経験した範囲の中では、演奏に対する抗議として途中で退席した人はほとんど見たことがありません。オペラの舞台を除けば、演奏の途中でブーイングや野次が浴びせかけられる場面も見たことがありません。演奏が終わった後に拍手もしないでそそくさと席を立つくらいが精一杯の抵抗です。

まじめな聴衆(1956年)

この背景にはいろいろな事情がはたらいているでしょう。
聞き手にすれば、安からぬチケットを購入し、さらには時間の工面もして出かけてきているのですから、そのコンサートが「感動」的なものであってほしいという願望があります。そして、その「願望」をかなえるために、お利口にしてじっと辛抱強く「作品」と向き合うことが必要だという「自己規制」がはたらきます。
そして、そう言う「自己規制」をはたらかしている人々が聴衆として会場を埋めることで、さらなる強い「同調圧力」がかかります。
そして、そう言う「同調圧力」を背景にして、演奏する側の「ちょっとくらい退屈でも、最後まで辛抱して演奏につきあってくれればそれなりの演奏になるんだよ」という開き直りが許容されます。

結果として、その他のジャンルのコンサートと比べれば、異常に重苦しい雰囲気がクラシック音楽のコンサートを覆います。そして、その雰囲気こそがクラシック音楽を他のジャンルと分かつステイタスだと考えている向きもあります。

考えてみれば、これは他の芸術分野と比較してみても、かなり不寛容な態度だと言わざるを得ません。
美術作品ならば前を素通りすることができます。
文学作品ならば本を閉じることができます。
映画は少し似通った部分はありますが、途中で退席することははるかに容易です。そして、何よりも、観客に辛抱を強いるような映画は商業的に成立することが難しいです。
そういう事情は演劇の分野においてもほぼ同様です。

そして、映画や演劇の分野で、観客に「辛抱」を強いることのないようにエンターテイメント性を確保することは、その作品や上演の価値を下げることにはつながりません。事実、観客を飽きさせない工夫をあちこちに施しながら、それでも芸術的に成功している作品や上演は数多く存在します。
ところが、クラシック音楽の世界では、そう言うエンターテイメント性を明らかにした時点で一段低く見てしまう風潮があるのです。
ですから、私が本心からの褒め言葉としてストコフスキーに対して「路上で見かける素人、疲れ切った勤め人を楽しませる」事に音楽家人生を費やしたと書いても、それは彼を貶めることにしかならないと怒る人もいるのです。

確かに、作品の姿を徹底的に追求することで感動的な演奏を実現することは現在の王道です。
しかし、物事は逆もまた真であることが多いのです。

まさに千両役者~カラヤン

映画や演劇の世界ではエンターテイメントの果てに人間の真実を描き出すような営みは数多く存在します。
クラシック音楽だって、「路上で見かける素人、疲れ切った勤め人を楽しませる」事の果てで作品の姿を追求することはできるのです。

そして、おそらくは、カラヤンという人はベルリンフィルを手中に入れた1960年代の中頃から、「作品の姿を徹底的に追求することで感動的な演奏を実現する」という王道から、「エンターテイメント性の果てで作品を追求する」という新しい道に踏み出したのではないかと考えるのです。
この二人の共通点が、新しい録音方法に対して常に興味を持っていたことなのですが、それは彼らの立ち位置を考えれば実に納得のできる話なのです。

そして、こういう言い方をすると、またまたストコフスキー信奉者を怒らせることになるかもしれないのですが、カラヤンはこの道をより高いレベルで実現して見せたのです。
思い切った言い方をすれば、カラヤンは歌舞伎の千両役者でした。そして、彼が存命中はクラシック音楽は歌舞伎の世界だったのですが、彼が亡くなったとたんにクラシック音楽の世界は「能の世界」に戻ってしまいました。

もちろん、能という芸能を否定する気は全くありませんが、その素晴らしさを味わうためにはかなりの辛抱が必要です。そして、観客に辛抱を求めるジャンルはどうしても限られた人だけの世界になります。
カラヤンが亡くなり、その後を追うようにバーンスタインも亡くなって、クラシック音楽の世界は一気に収縮しました。

もちろん、こんな書き方をしたからと言って、観客に辛抱は不要だと言っているわけではありません。
しかし、辛抱だけを求めていては、やがては能のようにごく限られた人だけが受容できる世界になってしまいます。

そう言う文脈でカラヤンをとらえてみることによって、改めて彼の凄みが分かってきた私なのです。

1 comment for “エンターテイメント性の果てで作品を追求する~カラヤンの偉大さ

  1. north fox
    2019年6月24日 at 11:10 PM

     プロの作曲家はどのような考えで作曲しているのでしょうか。聴衆の受け取り方など意識することなく、ひたすら己の信ずるところに従い”音楽性”を、”真理”を追究して作曲するのでしょうか。
     バッハといえども神に捧げると同時にパトロンを意識していたでしょうし、モーツァルトも出来れば音楽会の盛況をと望んでいたでしょう。以下現代に至るまで同様。そして大多数の聴衆の音楽に対する理解度や感性は作曲家には到底及ばないレベル。となれば作曲を生業にしている以上独りよがりの”真理の追求”だけではなく、エンターテインメント性をも求めるのが王道とも取れないでしょうか。有難く黙って俺様の音楽を聴けというのは傲慢そのものではないでしょうか。(ついでながらブルックナーよりも、傲慢の代名詞たるワーグナーの方がはるかにエンターテイメント性あるいはサービス精神はあるかと・・・)
     プロの演奏家(指揮者を含む)も同じことが言えると思います。このサイトにある「リスニングルーム」の演奏評価を見ると、カラヤンというだけで一律に低評価をする人々が多いことが窺がえますが、余計なお世話ながらもう少し柔軟な感性を養ったほうがもっと音楽が楽しくなると思います。
     また、Yung氏とは少し見方が違いますが、カラヤンは「エンターテイメント性の果てで作品を追求する」ではなく、その二つの鞍点を追究していたのではないでしょうか。そして大抵の場合高いレベルでそれを実現している、と言ったら言い過ぎでしょうか。

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