バーンスタインの人間的魅力が溢れた演奏

ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲 Op.43 レナード・バーンスタイン指揮 (P)ゲーリー・グラフマン ニューヨーク・フィル 1963年2月3日録音

この録音もまた驚くほどに「録りっぱなし」状態です。もちろん、これは貶しているのではなく、最大の褒め言葉です。
そして、その生々しさのおかげで、若きレニーとそれに付き従うゲーリー・グラフマンやアンドレ・ワッツなどの、この上もなく活きの良い音楽が楽しめます。おそらく、バーンスタインはうるさいことは一切言わなかったような気がします。それは、録音陣に対しても同じで、もしかしたら「ここがちょっと・・・」みたいなことを録音担当者が声をかけても言っても、おそらくはプレイバックを聞きながら「最高の演奏じゃないか!」などと言って肩をぽんぽんと叩きながら陽気に帰っていったような姿が目に浮かびます。

おそらくこれもほぼ一発録りに近いでしょう。
本当に、この時代のバーンスタインの録音は、どれを聞いても彼が主導権を握っている限りは「外れ」はないようです。

しかし、その「主導権」が別の人物に移ると、途端に音楽も録音もつまらないものになります。
ただし、以下述べることはあくまでも私の主観にに基づくものであり、何らかの根拠に基づいたものではないので、それはお許しください。

こういう協奏曲の場合は、指揮者とソリストとの力関係が問題となります。
アントルモンやワッツ、そしてグラフマンのような場合だと、言うまでもなく主導権はバーンスタインの方にあります。そして、録音の確認に至るまで、全てバーンスタインが決めていたように聞こえます。
ところが、これが例えばフランチェスカッティのような場合だとどうでしょうか。

Zino Francescatti

どう考えても曲線を多用して美音を持ち味にしているヴァイオリニストと、ひたすら直線的でマッチョな音楽を指向するバーンスタインとそりが合うとは思われません。ならば、ここで火花が散るというのはこの業界の通り相場なのですが、何故か人道主義者のバーンスタインはそう言ういざこざは好まずにさっと退いてしまうのです。
私にはそういう風に聞こえます。

さらには、録音に関しても、おそらくはフランチェスカッティからの要望だとは思うのですが、かなり手が加えられています。
おそらく、彼にしてみれば、自分のヴァイオリンが美しく響くことを要求したのでしょう。演奏に関しても、彼が気に入るように何度か取りなおした部分が多かったように聞こえます。

このコンビではシベリウスやブラームスのコンチェルト、ショーソンの「詩曲」、ラヴェルの「ツィガーヌ」、サン=サーンスの「序奏とロンド・カプリチオーソ」等を録音していますが、そのどれを聞いても同じような印象を受けます。
結果として、バーンスタインの美質がかなりの部分スポイルされているのですが、不思議なことに彼はそう言うことにはあまり頓着しないようなのです。おそらく、一仕事終わった後にはいつものように上機嫌で帰っていったような気がするのです。

この録音がなされたときにフランチェスカッティは60歳前後、バーンスタインは40歳過ぎ。確かに年齢差はありますが、それでもバーンスタインの立ち位置を考えれば五分以上に自分を主張できたはずなのです。
しかし、何故かこの人はそう言うことをしないのです。
いつも上機嫌で、絶対に他人との間に諍いを引き起こさない、そして、最後はその人間的魅力でいつの間にか全員を味方につけて自分のペースに巻き込んでいく。ただ、フランチェスカッティとの録音を聞いていると、何処まで行っても平行線との人物とは、何処かで円満に手を切ると言うことはしたようですね。

バーンスタインとフランチェスカッティのコンビによる録音は以下の通りではないかと思います。オケは言うまでもなくニューヨークフィルです。

  1. ブラームス:ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品77 1961年4月15日録音
  2. シベリウス:ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 作品47 1963年1月15日録音
  3. ショーソン:詩曲 作品25 1964年1月6日録音
  4. ラヴェル:ツィガーヌ 1964年1月6日録音
  5. サン=サーンス:序奏とロンド・カプリチオーソ イ短調 作品28 1964年1月6日録音

聞いてみると、一番最初に録音したブラームスだけが明らかに異なっています。
バーンスタインに率いられたニューヨークフィルは元気にいっぱいに鳴り響いていて、彼らのマッチョな本質が前面に出てきています。しかし、それはソリストにとってはかなり困った話だったようです。
ソロ楽器がピアノであるならば、それはそれで「勝負したろか!」と大阪弁的雰囲気になることも可能でしょうが、ヴァイオリンではあまりにも分が悪すぎます。そして、フランチェスカッティというヴァイオリニストはそう言う分厚い響きを突き抜けてヴァイオリンを響かせるというタイプではありません。
どちらかといえば、オケは伴奏に徹してもらって、それを背景にして曲線を多用しながら美音で勝負するタイプです。

この若造との最初の録音では、その若造のペースでまんまとしてやられた、と言う思いがあったのではないでしょうか。
2回目からの録音では、明らかにオケが控えめにしか鳴っていません。録音の方も、ブラームスの方はこの時代のバーンスタインの特長である「録りっぱなし」の雰囲気が濃厚なので、非常に生々しい音に仕上がっています。しかし、63年のシベリウスの方では、そう言う録りっぱなしのままで
結果として、バーンスタインの美質がかなりの部分スポイルされているのですが、不思議なことに彼はそう言うことにはあまり頓着しないようなのです。おそらく、一仕事終わった後にはいつものように上機嫌で帰っていったような気がするのです。
そう言う辺りが、バーンスタインという男の不思議です。

Bernstein

ただし、結果として、仕上がった音楽としては圧倒的にこのブラームスが面白いです。ここでは、いつもはダンディで涼しい顔をしている雰囲気のフランチェスカッティが結構ムキになってオケと勝負しています・・・と言うか、そうしないと自分の音がオケの中に埋没してしまう状態に追いやれています。
おそらくは、聞いている方は面白くても、やっている方にしてはたまったものではないと言うことだったのでしょう。

そして、シベリウスでは、その反動としてあまり面白くない演奏となったので、最後の顔合わせでは自分の土俵で勝負できるフランス音楽に絞り込んだと言うことなのでしょう。
これらは基本的にはオーケストラ伴奏付きのヴァイオリン曲ですから、自分の美質が遠慮なく発揮できます。
バーンスタインにしては、どう考えても面白くもない仕事だったと思うのですが、それでもやるべき事はきちんとやっておきましたという演奏になっています。当然の事ながら、それなりに完成度の高い演奏にはなっていても、ブラームスの時のようなエキサイティングなことにはなりようがありません。

そして、贅沢で我が儘な聞き手はそう言うことに不満を口にするのですから、なるほど芸術家というものは大変な仕事だと言わざるを得ません。