バーンスタインの「四季」と言うことになれば、レコード会社からのオファーで「やっつけ仕事」みたいに録音したのだろうと思ってしまいます。実は、私もそう思って「取りあえず」確認のために再生しました。
しかし、聞いてみて、これはもう心の底から驚かされました。
- ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集「四季」より「春」 レナード・バーンスタイン指揮 (Vn)ジョン・コリリアーノ ニューヨーク・フィル 1963年5月13日録音
- ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集「四季」より「夏」 レナード・バーンスタイン指揮 (Vn)ジョン・コリリアーノ ニューヨーク・フィル 1964年1月27日録音
- ヴィヴァルディ:ヴァイオリン協奏曲集「四季」より「秋」 レナード・バーンスタイン指揮 (Vn)ジョン・コリリアーノ ニューヨーク・フィル 1964年2月11日録音
- ヴィヴァルィ:ヴァイオリン協奏曲集「四季」より「冬」 レナード・バーンスタイン指揮 (Vn)ジョン・コリリアーノ ニューヨーク・フィル 1964年1月27日録音
弾むようなリズと強力な推進力に満ちた演奏であり、何よりも演奏者一人ひとりの気迫には並々ならぬものがあるのです。
確かに、この演奏には賛否両論があります。もう少し正確に言えば「否」の方がかなり多いような気がします。
「妙に部厚い響きの弦楽器群は透明性があまり感じられない」とか、「頻繁に変わるテンポ設定は恣意的としか思えない」等々です。
確かに「否」と断じた人たちの言わんとしていることは理解できないではありません。
意外に思われるかもしれませんが、この時代のCBSレーベルの録音はかなり優秀です。しかし、その優秀さは、それを引き出すのがかなり難しいという厄介さをもっています。
その典型とも言えるのが、ブダペスト弦楽四重奏団によるベートーベンの弦楽四重奏曲のステレオ録音です。この録音は「不滅の名盤」というお墨付きはついているのですが、果たしてその本当の素晴らしさをどれほど多くの人が享受できているのかは疑問です。
ナローレンジのシステムでまったりと丸め込んで聞けば十分に美しく響く録音なのですが、それでは4人の奏者がこの演奏に込めた気迫は全く伝わってきません。
さりとて、そう言う安易な再生で満足できずにその気迫を聞き取ろうとすると、途端に弦楽器特有の鋭さが牙をむいて聞き手の耳を突き刺します。
そして、そう言うきつさはシステムをちょっとやそっと弄ったくらいでは乗り越えられないので、結局は元のまったりとした響かせ方に戻ってしまうのです。
実は、これって私のことで(^^;、だからブダペストの録音は50年代初頭のモノラル録音の方を高く評価していたのです。
「彼らの最高の業績は?と聞かれればおそらく躊躇うことなくこの50年代初頭のモノラル録音による全集をあげるでしょう。」とまで言い切っていますし、さらに返す刀で「モノラルによる録音と比べてみれば、ステレオによる晩年の録音は明らかに『緩い』と感じてしまいます。」とまで言い切っていましたからね。(^^;
このブダペストのステレオ録音は、オーディオシステムにとっては試金石のような録音で、そのきつさを乗り越えると、弦楽器特有の厳しい音はそのままで決して聞く人の耳は刺すような事はありませんし、さらには、その厳しさの中から弦楽器特有の妖しい美しさも楽しめるようになるのです。つまりは、この時代のCBSの録音には表面的な派手さはなくても、一切の手加減なしの厳しさで演奏家の気迫までをも封じ込めているのです。
ステレオ録音の方を「緩い」と感じたのはそこまで再生レベルにまで引き上げることが出来ず、結果として「丸め込んで」誤魔化していたがゆえの「至らなさ」だったのです。
その意味で、80年代以降に主流となった、ラジカセに毛が生えたようなシステムで聞いたときに一番美しく鳴るように、中低域を意図的にふくらませ、独奏ヴァイオリンの音像を大きくしたような録音(カラヤン&ムターによる「四季」なんかはその典型)とは「思想」が根本的に違うのです。
そして、この辺りが、録音メディアを通して音楽を聴くときの難しさです。10年以上も前に「CD評価の難しさ」という一文を書いたことがあるのですが、それ以後も(自分としては)レベルがどんどん上がっていく中で、形は違えど同じような思いに何度も至らざるを得なかったのです。
そして、その結果として、ブダペストのステレオ録音のようにプラス方向にガラッと評価が変わってしまうようなものもあれば、その正反対のものもあったりするのです。
はじめに、このバーンスタインの録音に対して「否」と断じた人たちの気持ちは「理解できないではない」と書いたのは、その様な文脈上においてです。
つまり、この録音もまた、その演奏の凄さを感じとるためには、再生システムをかなり選ぶと言わざるを得ないのです。
ただし、こういう書き方をすると、「それじゃお前はお金をかけないと音楽の素晴らしさは伝わらないというのか」という批判をいただきます。過去にも、これと似たようなことを何度か書いたことがあるのですが、その時もほぼ同趣旨のお叱りをいただきました。
開き直ってしまえば、そう言う批判に対する答えは、半分はイエスで、半分はノーです。
録音という芸術は、やはり再生という行為に真剣に取り組まなければその素晴らしさを十全に引き出すことは出来ません。その意味では、半分はイエスです。
しかし、再生という行為はお金をかけるだけではどうにもならない面をもっていることもまた事実であり、その意味では半分はノーなのです。
例えば、このバーンスタインによる「夏」の第3楽章冒頭は弦楽合奏による激しいパッセージで開始されます。そのパッセージが一段落すると、向かって右手奥の方で勢いよく「譜面」をめくる音がはっきりと刻み込まれています。さらには、これよりははるかに小さい音ですが、何かにふれる音や椅子がきしむような音などもしっかりととらえられています。
こういう環境雑音の雰囲気からすれば、この録音はほぼ一発録りであることはほぼ間違いないようです。
そして、少なくとも、そういう「譜面」をめくるような音がはっきり「譜面をめくる音」だと判別できるレベルくらいまでに再生ステムに磨きをかけないと、この録音に封じ込められたバーンスタインとニューヨークフィルの気迫は伝わってきません。そして、それが伝わってこない限りは「妙に部厚い響きの弦楽器群」による不透明な演奏としか聞こえないのです。
つまりは、再生という行為に真剣に取り組まなければその素晴らしさを十全に引き出すことは出来ない」のです。
録音のクレジットを見てみると以下のようになっています。
- 「春」:1963年5月13日録音
- 「夏」・「冬」:1964年1月27日録音
- 「秋」:1964年2月11日録音
レコード会社からのオファーによる「やっつけ仕事」どころではありません。
おそらくは、バーンスタインとしては入念に準備をして、他の誰のものとも違う新しい「四季」の姿を提示したいという思いがあったことは間違いありません。その入念な準備を「恣意的」と感じる人がいても否定はしませんが、私はその結果として「四季」がまるでロマン派の小品のように再構成されているようで、聞いていて面白かったです。
しかし、それ以上に心に響くのは、そう言うバーンスタインの心意気に応えて気迫を漲らせてこんな小品に取り組んだニューヨークフィルの気迫の凄さです。その気迫をただの脳天気ととらえることも可能ですが、それもまた再生システムの限界によって捉え方は随分と変わって句rことでしょう。
しかしながら、これを脳天気ではなく気迫ととらえられるならば、星の数ほどある「四季」の録音の中でも他に代え難い魅力を持った一枚だと言い切れるのではないでしょうか。