「夭逝」ではなくて「断絶」を感じてしまう録音

カンテッリの事を夭逝の指揮者と言った人がいましたが、それは違うだろうと突っ込んでしまいました。
確かに彼は、1956年に僅か34才でこの世を去っていますから外形的には夭逝かも知れません。

しかし、「夭逝」というのは若さの中にあって避けがたい「死」を意識せざるを得ず、それ故に己に残された時間の少なさの中で呻吟せざるを得なかった人に奉られるものです。そして、その「呻吟」があったからこそ、そこには一つの環が閉じるような完結性が存在するのです。
飛行機事故という、想定もしなかった出来事で人生が絶ちきられたカンテッリにしてみれば、その直前まで「己の死」などは想像もしなかったはずです。
彼の前にあったのは洋々たる前途への自信であり、そこには「死の欠片」もなければ「残された時間の短さ」への意識なども存在するはずもなかったのです。
ですから、彼の若い死は、痛ましくはあっても一つの円環を閉じることが出来た「夭逝」とは異なる、ただひたすら痛ましいだけの「断絶」でしかなかったのです。

Guido Cantelli

カンテッリという人はトスカニーニに見いだされて世に出た人でした。
その才能はトスカニーニが自らの後継者と認めたほどの素晴らしいものでした。そして、その才能に対する正しい確信によって、カンテッリはどのような名門オケに対しても一歩も引くことなく自分の信念を貫き通す強さを持つことが出来たのです。ブラームスの1番やフランクの交響曲などを聞くと、そこではトスカニーニよりもトスカニーニらしい音楽を聞くことができたのです。それは、見事な彫刻作品を惚れ惚れと見つめるような思いを引き起こす音楽でした。

そして、こういう音楽というのは、オケに対する要求が厳しくなければ実現不可能なものであり、執拗なリハーサルなしには為し得ないものでした。
バックにトスカニーニがいたことも大きかったのでしょうが、それでも、僅か30才になったばかりの若造が、スカラ座のオケやフィルハーモニア管、そしてNBC交響楽団に対して一歩も引かなかったというのは尋常のことではありません。

ところが、彼の録音をもう少し聞き込んでいくと、全てが全て、そう言うトスカニーニ流の音楽の枠の中には収まっていないことにも気づくのです。
例えば、ここで紹介しているシューベルトの「未完成」などでは、半音階転調が繰り返される微妙な光と影の世界を描き出すことよりは、悲劇と平安と言う二つの対立要素のドラマとして描き出そうとしているように聞こえます。

シューベルト:交響曲第7(8)番 ロ短調 「未完成」 D759 グィード・カンテッリ指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1955年8月18日録音

図式的にすぎるかもしれませんが、それは明らかにトスカニーニ流よりはフルトヴェングラー的な世界に近いように思えます。

これは、明らかに一つのチャレンジだったはずです。
彼の中には「残された時間」などと言う概念は存在しなかったでしょうから、トスカニーニという枠の中から飛び出すための「模索」をはじめていたのででしょう。いや、きっと飛びださざるをえなかったのでしょう。
カラヤンがドイツのミニ・トスカニーニという立場から抜けださざるを得なかったように、カンテッリもトスカニーニの後継者という立場から抜け出す必要があったのです。
そして、カラヤンはゆっくりと時間をかけながらミニ・トスカニーニからカラヤンへと脱皮していったのですが、カンテッリは絶ちきられてしまったのです。

それ故に、彼自身が変わろうと模索を繰り返している、そして結果として最晩年のものとなってしまった録音を聞くと、そこには「夭逝」などという甘い言葉ではなくて、無惨なまでの「断絶」を感じてしまうのです。
それにしても、この時代は飛行機事故が多すぎました。
ジネット・ヌヴー、ジャック・ティボー、ウィリアム・カペル 、そしてグィード・カンテッリです。もっとも、ティボーは十分すぎるほど生きて、ジネット・ヌヴーの事故を聞いたときにも「私もかくありたい」と言ったそうですから別枠かもしれませんが、ヌヴーやカペル、カンテッリにかんしてはひたすら無惨なまでの断絶を感ぜずにはおれません。