バッハのパルティータの演奏からは、「病」の影は全く感じさせないリパッティの逞しさがあふれています

リパッティの残された録音はどれもみな音が貧しいと言われます。特に、そのピアノの響きに関しては、実際はどのようなものだったのかは全く分からないと言われます。
しかし、待ってくださいと言いたいのです。

ピアノの響きというのはその音色と音量から成り立っています。
音色というのは録音を通してでもある程度は推しはかれますが、どの程度の音量でそのピアノが鳴り響いているのかは、どれほどの最新、かつ超優秀録音であっても判断することは不可能です。何しろ、音量というのはアンプのボリューム一つでいかようにかえられるのですから、実際にどの程度の音量で鳴り響いていたのかは、録音を通してでは絶対に分からないのです。

Dinu Lipatti

ですから、どちらにしても本当のことは分からないのだと開き直れば、「本当の響きは分からない」などと言い立てるよりも、その「録音された響きで音楽が楽しめるかどうか」というレベルで判断すべきでしょう。
そして、そのように開き直ってみれば、再生の仕方によっては世間一般で言われるほど悪くない録音はたくさん残されているのです。

中には、戦後すぐのEMI録音だから「悪くて当然」みたいな事を書いている人もいるのですが、それもまた「録音の歴史」に関して無知に過ぎます。
モノラル録音時代のEMIの技術はほぼ完成に近づいていてて、それが完成に近づいていたがゆえにステレオ録音に対して懐疑的になって遅れを取ることになったのです。それでも、そう言う技術的遅れを取り戻すために奮闘していた60年代の前半頃までは、ステレオ録音もそれほど悪くはなかったのです。(ただし、それ以後のことに関しては多くの人が感じられているとおりです^^;)

ですから、戦後すぐのEMI録音は悪くて当然どころか、その時代の標準的なクオリティと較べればかなり優れた録音が多いのです。
そして、そのことはこのリパッティの録音にもあてはまります。

確かに1950年の録音ですから、テープによる録音が本格化する以前の録音です。
ですから、リパッティが残した録音はその様な技術的恩恵を受けることは出来なかったのですが、それでも同時代の録音と比較してとりわけ貧しいと言うことはありません。

どこかでテープ録音が始まるのは1952年頃からだという記事を読んだことがあって、その記述を信用したためにこのような一文となりました。しかし、詳しく調べてみると、アメリカのスコッチ社が1947年に民生用のテープレコーダーを開発して販売を始め、その翌年にはEMI等のメジャーレーベルはこの最新の技術を導入しているのです。日本でも1950年にはこのテープレコーダーを導入するレコード会社があらわれてきています。
ですから、レッグが体調が良くなったリパッティがいつでも録音できるように最新の機器をスイスに持ち込んでいたというのは、間違いなくこのテープ録音用の機器だったと思われます。

バッハ:パルティータ第1番 変ロ長調 BWV 825 (P)ディヌ・リパッティ 1950年7月9日録音

ここでのリパッティは徹底的に考え抜いた末に、その考えてたどり着いたバッハの音楽の形をこの上もなくクリアに提示しています。そこには、この時代のバッハ演奏に染み込んでいたロマン主義的に厚化粧された姿はどこを探して耳つかりません。
そして、そのたどり着いた「形」はリパッティの中で完全に消化されているために、同時代の他のバッハ演奏と較べれば隔絶するほどに「新しい」スタイルであるにもかかわらず何ら「奇矯」な印象を与えません。
その極めて自然に聞こえる形で、まっさらに洗い直したようなバッハの姿が示されていることにこそ、この演奏の価値があります。

そして、その考え抜いた「形」を実際の音に変換するためにとびきり素晴らしいテクニックが貢献していることで、その自然さは担保されています。
リパッティと言えば常に白血病と闘い続けたと言うことが「エクスキューズ」として浮かび上がるのですが、ここで聞くことのできるリパッティの演奏はそう言う「病」などの影は全く感じさせない逞しさにあふれています。

そして、そう言う「逞しさ」をこの録音は見事に刻み込んでいます。それは保障できます。
そう思えば、「本当の響きは分からないのですが、凄かったらしいですよ」みたいな曖昧な言い方で褒めるのではなくて、「黙ってこれを聞いてください」と差し出した方がよほどリパッティの凄さが伝わるのではないでしょうか。

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