3月は別れの季節、4月は出会いの季節、といわれます。
確かに3月は学校では卒業式が行われ、会社ではいろいろな辞令が発令されます。それをもって、学生は卒業していき、社会人は退職や転勤をしていくわけですから、間違いなく3月は別れの季節です。しかし、学生になくて社会人にあるのが「歓送迎会」というしきたりです。そう言う意味では、4月というのは本当の意味で「出会い」と「別れ」が交錯する切なくも微妙な季節だといえます。
ブラック企業と認定されるような会社や外資系の会社なんかだとそんな習慣はもとからないのかも知れませんが、古き良き「日本の伝統」を残している多くの日本の会社では、これは結構重要な「行事」です。私が勤めている職場も当然のことながら「古き良き伝統」が残っていて、親睦会の幹事にとっては最も重要な行事となっています。
そして、この行事における一番の主賓は「退職」する人であり、2番目が「転勤」していく人です。「歓送迎会」という名前は付いているのですが、新しく赴任してきた連中は「上座」に招待されても刺身のつまみたいなものです。
伝統というのは、実にもって扱いが難しいものです。
ヘーゲルが言ったように「現実的なものは合理的」です。それが長く続いてきた背景には、それがそうであるべき「合理的な理由」が必ず存在します。それが詰まらぬ「因習」にみえたとしても、それが続いてきたという「現実」の背景には必ず何らかの「合理性」が存在します。
そう言えば、ネットで「新人だけど歓迎会断ってもいいですか?」という問いかけがありました。その問いかけに対して、100パーセントの人が「あり得ない!」と答えていました。
私もそう思いますね。
出会いと別れが交錯するこの微妙な季節をやり過ごすためには、この「退職」する人を一番の主賓とする「歓送迎会」というしきたりは実によくできたシステムだと言うことです。
確かに、ヘーゲルは上の言葉に続けて「合理的なものものもまた現実的である」とは述べています。しかし、その「合理性」は現実に存在しているものが内包している「合理性」を凌駕する必要があり、さらにはその「合理性」を多くの人に認知させる努力があってはじめて「現実的」なものになります。
伝統と呼ばれるものがなぜに強固に根を張っているのかと言えば、そのような「現実が内包している合理性を凌駕」するような「合理性」というものがそんなに簡単に見つかるわけではなく、さらに、そのような合理性が見つかったとしても、今度はその「合理性」を広く認知させるためにはとてつもない労力が必要になるからです。
そう言う意味では、どのポジションにおいても、何らかの改革を志すものには「確固たるヴィジョン(現実が内包している合理性を凌駕しうるような合理性)」と「覚悟(合理性を広く認知させるためのとてつもない労力)」が必要です。
それほどまでに現実を変革するというのは大変なことなのです。
ところが、不思議なことに、21世紀に入ってとある人が宰相になってからは「改革」の言葉があふれるようになりました。
それは何ともめでたい、慶賀の至りと思えば大間違いで、その旗印とする改革の大部分が「新人だけど歓迎会断ってもいいですか?」レベルにとどまっているように思えて仕方がありません。その一番の理由が、現実が内包している合理性を見据えることもなく、ただの思いつきのレベルであれこれと改革案をぶちあげているようにしか見えないことです。
とりわけ大阪に住んでいるとつくづく嫌になります。
「大きなことはできません。小さなことからこつこつと」と言っていた時代が懐かしくなるのは私だけでしょうか。
まあ、しかし、そう言う生臭い話はやめましょう。(^^;
おそらく、昨日は多くの方が歓送迎会で見送られて、新しい職場へとかわっていかれたことでしょう。
「転勤の知らせ四つ葉のクローバー」(田崎比呂古)
Good luck!!