趣味の良い演奏~Friedrich Gulda

モーツァルト:ピアノソナタ第15番 ハ長調 K 545 (P)フリードリッヒ・グルダ 1965年2月録音

モーツァルトはたくさんの手紙を残していて、その中にはピアノ演奏に関わる内容もたくさん含まれています。
その手紙の内容によれば、モーツァルトの時代におけるピアノ奏法のお手本は疑いもなくエマヌエル・バッハだったことが分かります。そして、鍵盤楽器に関わるあらゆる知識とノウハウが詰め込まれたエマヌエル・バッハの「試論」をモーツァルトは熱心に読み実践していました。

Carl Philipp Emanuel Bach

そして、モーツァルトのピアノ演奏は、その「試論」に記された古典派の理想に近いものであったのです。

彼はいつも静かにピアノの中央に座り、そして手を持ち上げるようなことは好まずに、指は常に鍵盤の近くにある状態で手首を軽く使って演奏したようです。
また、無用にテンポを変えることも好まず、大げさな身振りや表情を持って演奏することにははっきりと嫌悪感を感じていました。彼は姉への手紙で自作のソナタを演奏するときは「きちんと正確」に演奏するように何度も書いていました。
モーツァルトは、クレメンティ(彼と同時代のピアニスト)のようなヴィルトゥオーゾタイプのピアニストではなかったのです。

さらに注目したいのは、モーツァルトの手紙に頻繁に登場する「趣味」という言葉です。

今の時代に「趣味がいい」と言えば一般的には「上品さが感じられるさま」という事になります。しかし、モーツァルトの時代におけるピアノ演奏で「趣味がいい」と言えば「表情と趣味をもって」装飾音を施して演奏することだったのです。
そして、その施した装飾音がその音楽が本来もっていた和声や旋律の本質を損ねるものであれば、たちまちその演奏は「趣味が悪い」と見なされたのです。

つまりは、ピアノ音楽というものは楽譜に書かれたとおりの演奏するのではなくて、常に「表情と趣味をもって」装飾音を施すことが演奏家としての義務だったのです。

例えば、このK.545のハ長調ソナタの第2楽章などはを、疑いもなく、モーツァルトは同じ旋律が繰り返されるたびにそれらに「表情と趣味をもって」装飾音を施したことは間違いないのです。
ですから、この音楽を何の疑問もなく楽譜通りに演奏することが出来るピアニストがいるとすれば、それはよほど強い忍耐力を持っているのか、もしくはよほど感性が鈍いかのどちらかなのです。

おそらく大部分のピアノ教師は自分の弟子が同じ旋律を何度も繰り返すのをじっと堪え忍ぶことが己の義務と思い定めているようですし、多くの哀れな子供達もまたクラシック音楽などというものはそう言うものだと諦めているのです。
そして、多くのプロのピアニスト達も幼少期から鍛え上げられた強い忍耐力とあらん限りの工夫でもってその繰り返しが退屈なものにならないように力を尽くすのです。
原典が神聖化される今の時代にあって、誰も「王様は裸だ!」とは言わないし、おそらくは心でそうは思っていても「言えない」でいるのです。

しかし、その様な労多くして益の少ない努力をするくらいならば、どうしてプロのピアニストはモーツァルトが行ったように、「表情と趣味をもって」装飾音を施した演奏をしないのでしょうか?
特に、モーツァルトの時代に使われたフォルテピアノを復刻し、その歴史的正当性の蘊蓄を垂れたあげくに粛々と楽譜通りに演奏している録音を聞かされると、本当にこの人は何の疑問も苦痛も感じないのだろうかと思わざるを得ません。

そして、その事はピリオド演奏だけに限った話ではなく、現代のピアノを使った演奏でも事情は同じです。
天才モーツァルトの書いた楽譜に演奏家が「恣意的」に音符を追加して演奏するなどと言うのは「神をも恐れぬ所業」と思われているようなのです。しかし、いくら何でも、これだけの歴史的正当性があるのならば、自分なりに装飾音を追加して演奏しているピアニストはいるだろうとあれこれ探したのですが、自分の無知とリサーチ力の欠如のために、なかなか「これは!」という録音を見つけ出すことが出来ませんでした。

Friedrich Gulda

しかし、ついに見つけ出しました。それが、このフリードリッヒ・グルダによる1965年2月の録音です。
分かってみれば、このグルダの装飾音の追加は結構有名らしいので、やはり私の無知だったようなのですが、言い訳をさせてもらえば、この装飾音の追加を上で書いたような文脈で評価している人は少なくて、その大部分はいつものよくある「グルダの酔狂」としか受け取っていないのです。
アレグロの第1楽章から細かい装飾音が施されているのですが、圧巻なのはアンダンテの第2楽章です。
グルダはモーツァルトが指示したとおりの反復を全て忠実に行っているのですが、その反復のたびにうっとりするような美しい装飾音を施していくのです。そして、その装飾音の追加はモーツァルトの歌う音楽をよりいっそう鮮やかに彩ることはあっても、決してモーツァルトの音楽を傷つけるようなことはないのです。
おそらく、グルダは徹底的に考えた末にこの装飾音の追加を行っているのでしょうが、聞こえてくる音楽は自由で即興的な雰囲気が溢れています。

私はこの録音を聞いて、なるほどモーツァルトこそは、ピアノが未だに青春時代だった時代の音楽だったんだと深く納得することが出来ました。