昔はレコードは貴重品でした。~シュナーベルとナット

大卒の初任給が1万円ちょっとの時代でもレコードの価格は今とほとんど同じの2000円~3000円はしたそうです。初任給の約6分の1程度ですから、今の感覚で言えば一枚数万円程度の値段だったのでしょう。
ですから、ベートーベンのピアノソナタ全集なんてのは、そうおいそれと買えるものではありませんでした。

清水の舞台から飛び降りるつもりでその様な全集を購入しようとなれば、「誰の全集」を買うかというのは、結構深刻な課題となります。
SP盤からLP盤に移行していった50年代の終わり頃は高度成長のハシリの頃であり、日本人の購買力も少しずつ上がり始めてきたこともあって、こういう「うれしくも深刻」な課題に直面する人も増えつつあったようです。

その時代に、チョイスの対象となったのがこのナットとシュナーベルでした。

ベートーベン:ピアノソナタ全集:(P)シュナーベル 1932年~1935年録音

ベートーベン:ピアノソナタ全集:(P)ナット 1952年~1955録音

どこで読んだのかは忘れてしまいましたが、その様な「幸せな」悩みに遭遇した二人の盤友が、シュナーベルとナットの全集をそれぞれに購入した、という話を思い出します。

お互いに念願の全集を購入して幸せいっぱいなのですが、やがて相手のことが気になるのが人のサガで、そこで、お互いに聞き比べてみようと言うことになります。
初めは、お互いにあれやこれやと和やかに批評をしあっているのですが、次第にシュナーベル君の表情が次第次第に曇ってきます。

やがて、シュナーベル君の方がぽつりと「ミスったかな」と呟いてトボトボと家路についたという「それだけの話」です。

戦前におけるシュナーベルはそれこそベートーベン演奏のスタンダードでした。しかし、戦争で亡命したアメリカは純粋ヨーロッパ人の彼にとってはこの上もなく居心地の悪いところだったようで、目立った活動はほとんど出来ず、その名声にも少しばかり陰が差しました。
それでもベートーベンの大家としての権威は戦後においても健在でした。

Artur Schnabel

それに対してナットの方は、基本的には演奏家というよりは教育者でしたから、シュナーベルのような華々しいキャリアはありません。
録音活動にもあまり熱心ではなかったようで、このベートーベンのピアノソナタ全集をのぞけばシューマンなんかにある程度まとまった録音がある程度です。

ですから、この二人を聞き比べれば最初から勝負はついているようなものなのですが、シュナーベル君は建前に安住できる「愚かさ」は持っていなかったと言うことなのでしょう。

そんな事を思い出しながら久しぶりにナットの演奏をあらためて聴き直してみて、ティボール・ヴァルガを思い出してしまいました。
ヴァルガもまた若くして華やかなキャリアをスタートさせながら、その虚飾の世界にうんざりしてその生涯を教育活動に捧げた人でした。

そんな彼の演奏は多くは残っていないのですが、そのどれもが何もしていないようなのに、聞き進むうちに深い感情を呼び起こさずにはおられない性質のものでした。

「どうだ、おれのテクニック、凄いだろ!!」「こんな解釈、誰もやってないもんね!!」などというあざとさは全く無縁の演奏で、言葉の最も正しい意味で、作曲家の意思に忠実な演奏でした。それは、作曲家がその作品に託した思いを最大限にくみ取って、それをひたすら誠実に表出しようという演奏でした。
そこでは、演奏という行為が現実世界のあらゆる利害関係から離れた地点で成り立っていました。

そして、ナットのベートーベン演奏もまた同じような場所において成り立っているように聞こえます。

荒っぽいまとめ方を許してもらえるならば、彼の演奏は全体として速めのテンポで淡々と弾ききっているようで、一聴すると何もしていないように聞こえるくらいにあっさりしています。
ただし、一つ一つの音はクリアで曖昧さというものが全くありません。
そのために、昨今の楽譜に忠実な演奏によく見られるように「本当に何もしていない」のではなくて、その淡々とした演奏の中に繊細で微妙な感情が交錯していく様が手に取るように浮かび上がってきます。

もちろん、こんな書き方をすると、同時代にソナタ全集を完成させたバックハウスやケンプは邪念の塊だったと言っているように聞こえるかもしれませんが、それは違います。
バックハウスやケンプの作品に対する誠実さには全く疑問は抱いていません。

しかし、基本的にコンサート・ピアニストであった彼らにはナットのような心境になることは出来なかったというだけの話です。
つまり、演奏という行為を生業としないことによって成り立つ演奏というスタイルがあると言うことです。

それが録音という形で残ることは希であるが故に、その様な希な演奏に出会うと言うことはこの上もない喜びだと言うことです。