ブラームスは3曲のヴァイオリン・ソナタを残していますが、これを少ないと見るかどうかは難しいところです。確かに一世代前のモーツァルトやベートーベンと比べると3曲というのはあまりにも少ない数です。
しかし、ベートーベン以降のロマン派の作曲家のなかで3曲というのは決して少ない数ではありませんし。さらに、完成度という観点から見ると、これに匹敵する作品はフランクの作品以外には思い当たりませんから、そういう点を考慮すれば3曲というのは実に大きな貢献だという方が正解かもしれません。
ブラームスの第1番のソナタは1878年から79年にかけて、夏の避暑地だったベルチャッハで作曲されました。
45才になってこのジャンルに対する初チャレンジというのはあまりにも遅すぎる感がありますが、それはブラームスの完全主義者としての性格がそうさせたものでした。
実は、この第1番のソナタに至るまで、知られているだけでも4曲のソナタが作曲されたことが知られています。そのうちの一つはシューマンが出版をすすめたにもかかわらず、リストたちの忠告で思いとどまり、結果として失われてしまったイ短調のソナタも含まれています。
他の3曲は弟子の証言から創作されたことが知られているものの、ブラームスによって完全に破棄されてしまって断片すらも残っていません。
ブラームスがファースト・シンフォニーの完成にどれほどのプレッシャーを感じていたかは有名なエピソードですが、そのプレッシャーは決して交響曲だけに限った話ではありませんでした。ベートーベンが完成形を提示したジャンルでは、ことごとくプレッシャーを感じていたようで、そのプレッシャーがヴァイオリン・ソナタというジャンルでも大量の作品廃棄という結果をもたらしたのです。
では、ヴァイオリン・ソナタという形式の「何」が、ブラームスに対して多大な困難を与えたのでしょうか。
もちろん、私ごとき愚才がブラームスの心中を推し量ることなどできようはずもないのですが、そこを無理してあれこれ思案をしてみれば、おそらくはヴァイオリンとピアノのバランスをどうとるかという問題だったのではないかと思います。
言うまでもないことですが、ヴァイオリン・ソナタの歴史を振り返ってみれば、ヴァイオリンとピアノという二つの楽器が対等な関係ではなくて、どちらかが主で他が従という形式をとっていました。
それが、モーツァルト言う天才によって初めて両者が対等な関係でアンサンブルを形成する音楽へと発展していきました。そして、この方向性のもとで一つの完成形を示したのが言うまでもなくベートーベンでした。
しかし、一連のベートーベンの作品を聴いてみると、事はそれほど単純ではないことに気づかされます。
鍵盤楽器としてのピアノの機能が未だに貧弱だったモーツァルトの時代では、ヴァイオリンとピアノは十分に共存できましたが、ベートーベンの時代になるとピアノは急激に発展していき、オーケストラを向こうに回して一人で十分に対抗できるまでの力を蓄えてしまいます。
それに比べると、ヴァイオリンという楽器は弓の形状は多少は変わったようですが、弓を弦に擦りつけて音を出すという構造は全く変わっていないわけですから大きな音を出すにも限界があります。
ですから、クロイツェル・ソナタなどでピアノが豪快にうなりを上げて弾ききってしまうと、さすがのベートーベンをもってしてもヴァイオリンがかすんでしまう場面があることを否定できません。
そして、ロマン派の時代になるとピアノはその機能を限界まで高めていきます。
つまり、頭の中だけでこの両者を丁々発止のやりとりをさせて上手くいったと思っても、実際に演奏してみるとピアノがヴァイオリンを圧倒してしまい「何じゃこれ?」という結果になってしまうのです。
つまり、この二つの楽器の力量差を十分に配慮しながら、それでもなおこの二つの楽器を対等な関係でアンサンブルを成立させるにはどうすればいいのか?
これこそが、45才まで書いては廃棄するを繰り返させた「困難」だったのではないでしょうか?
しかし、ブラームスのヴァイオリン・ソナタを聴くと、この二つの楽器が実に美しい調和を保っていることに感心させられます。
ベートーベンでは、時にはピアノがヴァイオリンを圧倒してしまっているように聞こえる部分もあるのですが、ブラームスではその様な場面は皆無と言っていいほどに、両者は美しい関係を保っています。そして、その様な絶妙のバランスを保ちながら、聞こえてくる音楽からはしみじみとした深い感情がにじみ出してきます。
これはある意味では一つの奇跡と言っていいほどの作品群なのです。
ヴァイオリン・ソナタ第1番ト長調 op.78「雨の歌」
ブラームスが夏の避暑地として愛していたペルチャッハで1848年から49年にかけて作曲されました。
副題の「雨の歌」というのは、第3楽章の冒頭の旋律が歌曲「雨の歌」から引用されているためにつけられたものです。しかし、その様な単なる引用にとどまらず、作品全体を雨の日の物思いにふけるしみじみとした感情のようなものが支配しています。
特に第2楽章はその様な深い感情がしみじみと歌われる楽章であり、一度聴けば忘れることのできない音楽です。
ヴァイオリン・ソナタ第2番イ長調 op.100
ベルチャッハに次いでブラームスが避暑地として選んだのがスイスのトゥーンでした。ヴァイオリン・ソナタの2番と3番はともにこのトゥーンで作曲されました。
トゥーンは私も一度訪れたことがあるのですが、湖の畔に広がる小さな町で、天気がよいと遠くにアルプスの山が見渡すことができる実に気持ちのいいところです。
ブラームスの評論家として有名なガイリンガーはその事をとらえて、トゥーンの町がベルチャッハよりも雄大なように、第2番ソナタもアルプス風の威厳に富んで力強くて逞しい、等と述べているそうです。
「ほんまかいな?」という感じですが、しかし、この作品に取り組んだ頃のブラームスは人生の絶頂にあったことは間違いないようです。3曲あるブラームスのヴァイオリン・ソナタのなかでは最もよく歌う作品であり、音楽は明るくのびのびしています。
音楽家としての成功を勝ち取り、多くの友人に囲まれて充実した作曲活動を展開していた時期であり、その様な幸福な生活をこの作品が反映ししていることは間違いありません。
ヴァイオリン・ソナタ第3番ニ短調 op.108
このソナタは第2番ソナタと2年しか隔たっていないのに作品の雰囲気が大きく異なります。
第2番のソナタではあれほどまでも幸福感につつまれていたのが、この第3番のソナタでは晩年のブラームスに特徴的な渋くて重厚な雰囲気が支配しています。
この変化をもたらしたものは親しい友人たちの「死」でした。トゥーンにおける幸福な生活はわずか一年しか続かす、その後は彼の回りで親しい友が次々と亡くなっていきました。
この事はブラームスに大きな衝撃を与えることになり、彼の作品は短調のものが多くなって、避けられぬ人の宿命に対する諦観のようなものがどの作品にも流れるようになっていきます。
この第3番のソナタでも、第2楽章のG線だけで歌われる冒頭のメロディからはその様な傾向をはっきりと聞き取ることができます。
(Vn)シモン・ゴールドベルグ (P)バルサム 1953年5月12,15&20日録音
シモン・ゴールドベルグ(1909~93)。残念ながら、その存在は忘れ去られようとしています。
この時代に活躍した芸術家は多かれ少なかれ戦争に翻弄されざるを得なかったのですが、ゴールドベルグが味わった苦難は並大抵のものではなかったようです。
1909年にポーランドに生まれたゴールドベルグの天才伝説は数々残されています。
16才でドレスデン交響楽団のコンサートマスターに就任、さらに19才でフルトヴェングラーに招かれてベルリンフィルのコンサートマスターに就任・・・等々
。ところが、ユダヤ人だったゴールドベルグはナチスの台頭とともにその運命は一変します。
33年にはドイツを脱出し、外国を転々とする生活が続きます。そして大戦の勃発に伴いインドネシアのジャワ島で日本軍により抑留されてしまいます。
戦後は再び活動を再開するのですが、聞くところによると。これから!と言うときに妻が病に倒れ、その看護のために10年を超える時を費やしてしまいます。
ホントに運のない人です。
しかし、最晩年は何の運命のいたずらか、戦争中に抑留されて苦難を味あわされた日本との縁ができて、さらには日本人ピアニストの山根氏と再婚されて、その最期の数年を過ごすことになったのです。
さらに、これもまた聞くところによると、亡くなる直前に奥様とブラームスのヴァイオリン・ソナタを演奏して、その出来にいたく満足したゴールドベルグは「おまえの連れ合いはそれなりのヴァイオリニストだったことが分かっただろう」と笑っていたそうです。
ゴールドベルグとバルサムによる全集はマニアの間では幻の名盤とされてきたものです。
今回あらためて聴き直してみると実に端正な演奏で、幻の名盤という大仰な表現とはあまりにも段差がありすぎて戸惑いを覚えてしまいました。
最近の演奏家でもブラームスのヴァイオリン・ソナタはもっと情念を込めて演奏するのが一般的です。しかし、その様な情念のぶちまけが時には煩わしさに転化して音楽の底を浅いものにしている傾向も否定できません。
それらと比べれば、このゴールドベルグの演奏は実に淡々としていて、何もしていないようにすら思えるほどなのですが、じっくりと聞いているとその奥から深い情緒がにじみ出してくる演奏であることに気づかされます。
この「何もしていないように見える演奏」と「何もしていない演奏」というのはちょっと聞くと同じように聞こえるのですが、その実態は天と地ほどの差があります。
言うまでもなく、ゴールドベルグの演奏は前者であって、演奏家が己というものを前面に押し出すことなく、それでいながら作品の本質はしっかりとつかまえて過不足なく表現しているという点で実にすぐれた演奏だと評価できます。