ムラヴィンスキーの悲愴

ムラヴィンスキーは至る所で作品の持つ「アトモスフェア」をつかみ取ることが重要だと述べています。この「アトモスフェア」というのはロシア語だと思うのですが、ピッタリと来る日本語が見あたらないようです。

Yevgeny Mravinsky

一応は「雰囲気」という言葉を当てることが多いようなのですが、日本語の「雰囲気」という言葉には大雑把ないい加減さがつきまといますのであまり上手くないようです。
「風情」としてもいいように思うのですが、これもまた日本的なウェット感がつきまとうのでどこかしっくりきません。

そうではなくて、おそらくはその作品が演奏されたときに作り出される空間の色合い、たたずまいのようなものであり、その場に居合わせた人間をその色合いに染めてしまうような強い力を持ったものを「アトモスフェア」といっているのだと思います。
ですから、この言葉は「インテリア」の世界などでよく使われるようです。
内装や家具の配置などによって独自の世界を演出することによって、そこに居合わせた人の内面世界までをも変えてしまう力を「アトモスフェア」と言っているようです。

そう言えば、京都のお寺などに行って庭に面した濡れ縁などに座っていると、いつもとは異なる心持ちになることを誰しもが経験したことがあると思います。それはまさに、その場の「アトモスフェア」が私たちの心に強く働きかけたからです。

さて、「作品の持つアトモスフェアをつかみ取ることが大切である」、ここまでなら誰でも言えます。
しかし、ムラヴィンスキーが凄いのは、この言葉に続けて「そして、その作品を演奏するときは自分自身の生活をそのアトモスフェアに染め上げて、その中に己をひたすことが大切だ」と述べて、その事を常に実践し続けたことです。

彼は次のコンサートのプログラムを決めると、スコアを研究し、そこからつかみ取った「アトモスフェア」で己の生活を染め上げます。ですから、チャイコフスキーが予定されているときとベートーベンが予定されているときでは彼の生活は大きく変わるのです。
飛行機に乗って世界中を飛び回り、今週はベートーベンを振り、来週はチャイコフスキーを振るなどと言うことはムラヴィンスキーにはあり得ないことでした。
そして、その様にしてつかみ取ったアトモスフェアを徹底した練習で完璧な形で表現しようとしたのがムラヴィンスキーの芸でした。

つまり、ムラヴィンスキーの音楽は徹底的に主観的な解釈に貫かれたものなのです。
そして、その主観的な解釈を完璧なまでの形で再現するために徹底的にオーケストラを鍛え上げたのです。

あのレニングラードフィルの精緻きわまる合奏能力とそこからもたらされる鋼鉄の響きは、作品に込められた作曲家の意志を忠実に再現するために捧げられているのではなくて、ムラヴィンスキーという男の主観的解釈を完璧な形で表現するために捧げられているのです。

その事に気づけば、ムラヴィンスキーという絶対的な権力のもとで強力にコントロールされながら、楽団員一人一人は決して固くなることなく、時には音楽に熱狂してのめり込んでいくような風情を見せたという「奇跡のような不思議」さも理解できます。
ムラヴィンスキーという男の「主観的解釈」が徹底したリハーサルを通して楽団員一人一人を駆り立て、熱狂させるのです。

しかし、このようなことは「ソ連型社会主義」という極めていびつな社会の中だからこそ実現したことだとも言えます。

ムラヴィンスキーとソ連共産党との関係、とりわけ彼の地元であったレニングラードの党組織の関係は極めて険悪なものでした。
党の幹部にとって、芸術的理由を押し立てて自分の考えを曲げることを潔しとせず、さらには決して自分たちに頭を下げようとしないこの男は目の上のたんこぶでした。しかし、彼の世界的な名声の前では表だった迫害もできないという点で、第2次大戦中のフルトヴェングラーとナチスの関係とも似通っています。

ムラヴィンスキーの名前が世界にとどろいて間もなく、とあるジャーナリストが彼をレニングラードに訪ねます。
教えられた住所を訪ねてみると、そこは一般市民が住んでいる質素なアパートの一室でした。世界的マエストロがこんな質素なアパートに住んでいるはずはないと思った彼は場所を間違えたのだと思ったのですが、念のためにその一室を訪ねてみると中からムラヴィンスキーが姿を表したので驚いたという話があります。
この時の訪問の様子が西側で大きく報道されると、あわてたソ連当局はムラヴィンスキーに嫌みを言いながらもう少し大きなアパートの部屋をあてがったそうです。

さて、このような男が作り出す音楽に対して、はたして「批評」などというものが成り立つでしょうか?
この男の「主観的解釈」に立ち向かうだけの「勇気」を持った「評論家」など存在するのでしょうか?

それよりも、飛行機に乗って世界中を飛び回り、今日はベートーベン、来週はマーラー振って、その後はフランスでドビュッシーをやるもんね!!なんどという生活をおくって何の不思議も感じない昨今の音楽家が作り出す音楽と、彼の音楽を同じ俎上に並べて論ずることなどできるのでしょうか。
同じ楽器を使って同じスコアを音にしていても、それはもしかしたら全く異なるジャンルに属する芸術かもしれないのです。

チャイコフスキー:交響曲第6番 ロ短調 作品74 悲愴(Pathetique) ムラヴィンスキー指揮 レニングラードフィル 1960年9月&11月録音

ここで聴くことができるチャイコフスキーの「悲愴」は彼が最も愛した音楽の一つでした。
彼は暇さえあればこの作品のスコアを眺めて、時には涙していたそうです。

その様な男の「悲愴」を聴いて我々凡人にできるのはこの前に頭を垂れるのか、もしくは拒否して遠ざけるかのどちらかしかないでしょう。
凄まじくも、恐ろしい音楽です。

返信を残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です