モーツァルトを理解しようと思えば、まず最初に聴くべきはオペラです。その次となれば、おそらくは彼の第2言語とも言うべきピアノの作品を聴くべきでしょう。ですから、交響曲はモーツァルトにとっては大切なことを語る場ではない傍流に属するジャンルだったといえます。
しかし、モーツァルトが凄いのは、その様な傍流に属するジャンルにおいても、交響曲の生みの親と称されるハイドンを上回るような成果を残したことです。
「モーツァルトが最初の無邪気なシンフォニー(K.16)から、ジュピター=シンフォニーと名付けられれているハ長調シンフォニー(K.551)に至るまでにたどった道は、ハイドンの最初のシンフォニーから最後のロンドン=シンフォニーに至る道よりもはるかに遠いのである。」(アインシュタイン)
可哀想なハイドン!!
モーツァルトの交響曲は何曲ある?
モーツァルトの交響曲を概観しようと思えば、何をもって交響曲とするのかという問題があります。
一般的には彼の最後のシンフォニーには41番という番号がふられていますから、全部で41作品と思われているのですが事はそれほど単純ではありません。まずは、旧全集ではいくつかの偽作にも番号が割り振られていますから、これらを排除する必要があります。
次に、番号が割り振られていないのですが、今日のとらえ方から言えば交響曲と認定できるものがいくつかありますから、それらの作品を追加する必要があります、
まず、偽作の排除ですが、これは問題がありません。以下の3作品を排除します。
- K.17:交響曲第2番 変ロ長調・・・偽作
- K.18:交響曲第3番 変ホ長調・・・K.F.アーベルの交響曲を編曲したもの
- K.444:交響曲第37番ト長調・・・ミヒャエル・ハイドン作の交響曲に序奏部をつけて演奏したものをモーツァルト作と誤ったもの
次に、番号が割り振られていないけれども、交響曲と認めるものを数え上げるのですが、これが非常に厄介です。
長らくスタンダードの位置にあったベーム&ベルリンフィルによる全集では9つ追加して全体で47曲となっています(41-3+9=47)。
これに対して、モーツァルト研究の第一人者と言われるニール・ザスローなどはいくつかのセレナードやオペラ序曲なども数え入れて57曲までにふくれあがっています。(ホグウッド指揮の全集)
しかし、私にはこの辺の詳しい事情を解説する能力はありませんので、とりあえずはベーム盤にしたがって47曲を概観することにします。
この辺の事情が全く持って理解できないので、6月に発刊されたザスロー先生の「モーツァルト全作品事典」なるものを注文してしまいました・・・^^:。
モーツァルトの交響曲を以下の3つのグループに分けることにはあまり異存はないと思います。
- 神童モーツァルトの子ども時代の作品・・・初期交響曲(20曲)
- ザルツブルグにおける宮仕え時代の作品・・・ザルツブルグ交響曲(17曲)
- パリ旅行からザルツブルグとの訣別、そしてウィーン時代の作品・・・後期交響曲(10曲)
神童モーツァルトの子ども時代の作品・・・初期交響曲
子ども時代の交響曲は神童モーツァルトの演奏旅行と密接に関わっていました。彼が、演奏旅行でヨーロッパ各地を旅行し、それぞれの土地で最新の音楽事情にふれるたびにそれらを己の中に取り込んでいきました。
その演奏旅行は、長い間、父レオポルドが金儲けのために息子のヴォルフガングを連れましたように言われてきました。しかし、最近ではヴォルフガングのために綿密に計画された教育のためだったと理解されています。
確かに、モーツァルトは並ではない天分を持って生まれてきました。しかし、その天分も父レオポルドによる綿密に計画された「英才教育」がなければ、二十歳すぎればただの人になっていたかもしれません。
その意味で、初期交響曲を聴く楽しみは、ヨーロッパ各地で様々な形で芽生え始めた交響曲という音楽形式をモーツァルトがどのように受容し、または何を拒否して、それらを己の中に取り込んでいったかを眺めることに尽きます。
子ども時代のモーツァルトは父に連れられて大きな旅行を4回行っています。ですから、交響曲を概観するときはこの4つの旅行に沿って概観することが必要です。
<初めての演奏旅行(1763年~1766年)~ミュンヘン、フランクフルト、パリ、ロンドン>
- 交響曲第1番 変ホ長調 K.16
- 交響曲 ヘ長調 K.A.223(1981年に楽譜が発見され真作と確定)
- 交響曲第4番 ニ長調 K.19
- 交響曲第5番 変ロ長調 K.22
- 交響曲 ト長調 “Old Lambach” K.A.221(これにまつわる話を始めるととても長くなるのですが、結論だけ言えばザスロー先生のご尽力で真作として確定しました^^)
神童モーツァルトの名をヨーロッパ中に広めた最初の演奏旅行ですが、この演奏旅行の途中において64年の暮れから65年の初めにかけて滞在したロンドンにおいて最初の交響曲(第1番 変ホ長調 K.16)が書かれます。
書くきっかけとなったのは、父レオポルドがロンドンで病気のために臥せってしまい、することがなくなって手持ちぶさたになったモーツァルトが暇つぶしに書いたという話が伝わっています。
もちろん真偽のほどは定かではありません。
何故ならば、レオポルドはザルツブルグの家主であるハーゲナウアー宛てに演奏会を開くことを伝え、その中で「交響曲はすべてヴォルフガングが書いたものです」と記しているからです。おそらくは、今までの「教育」の成果を確かめるとともに興行的な成功も当て込んでモーツァルトにこの課題を与えたと見る方が妥当なのではないでしょうか。
この時期の交響曲は10才にも満たない「子ども」時代の作品なのですから、それほど多くのものを期待されても困るでしょう。
しかし、それでも第1番の交響曲においてすら、明るく無邪気なだけの音楽ではなく、後のモーツァルトを予感させるような影が走る場面があることも事実です。
それでもなお、これらをもってモーツァルトを天才と断ずるのは明らかに誤りです。
10才にも満たない「子ども」がこのような交響曲を書いたことを持って「天才」と呼ぶのならば、それはあまりにも音楽史に疎いと言わざるを得ません。実際、ロッシーニを初めとしてこのような「早熟」の子どもは何人も指摘できます。
モーツァルトが天才だと言われるのは、ただ単に「早熟」だったからだけでなく、この地点から誰も考えつかないほどに遠くまで歩き通したからです。
その事は、最初に紹介したアインシュタインの言葉にすべてが語られています。
<ウィーン旅行(1767年~1769年)>
- 交響曲 ヘ長調(第43番) K.76(真作かどうかについて見解が分かれている)
- 交響曲第6番 ヘ長調 K.43
- 交響曲第7番 ニ長調 K.45
- 交響曲 変ロ長調(第55番) K.A.214(真作とされているが一次資料は失われているので疑問は残る)
- 交響曲第8番 ニ長調 K.48
- 交響曲第9番 ハ長調 K.73(75a)
モーツァルト父子は西方への大旅行からザルツブルグに帰郷したのは1766年の11月26日だったと伝えられています。
そして、彼らはその翌年の9月には早くもウィーンへの演奏旅行へと出発していきます。
彼らは、ウィーンを中心として活発に演奏活動を続け、この旅行も1769年1月までの長きに達します。
モーツァルトはこの旅行において、前古典派と呼ばれるヴァーゲンザイルやモンなどの作風を学び、さらには規模の大きなウィーンのオーケストラも念頭に置いてトランペットやティンパニーも追加された4楽章構成の交響曲を初めて書きます。
言うまでもなく、このスタイルこそがハイドンとモーツァルトによって「交響曲」というジャンルに昇華されていくことになるのです。
<第1回イタリア旅行(1769年~1771年)>
- 交響曲 ニ長調(第44番) K.81(最近はレオポルドの作とする説が有力)
- 交響曲 ニ長調(第47番) K.97(真作とされているが一次資料は失われているので疑問は残る)
- 交響曲 ニ長調(第45番) K.95(真作とされているが一次資料は失われているので疑問は残る)
- 交響曲第11番 ニ長調 K.84(自筆譜がないために疑問は残るが、様式研究などから真作とされている)
- 交響曲第10番 ト長調 K.74
ウィーンでの長逗留を突然に切り上げたレオポルドは同じ年の12月にいよいよという感じで「音楽の国、イタリア」へと向かいます。
このあたりの旅行計画も冷静な目で眺めてみれば実に周到に計画されたエリート教育であることに気づかされます。
ただし、この旅行で書かれた交響曲は正直言って面白味に欠けるものばかりです。また、自筆譜がほとんど失われているために真偽の判定も未だに藪の中というものが少なくありません。
また、当時のイタリアのシンフォニアではメヌエット楽章を持たない3楽章構成が基本なのですが、モーツァルトの手になるこれらの「イタリア交響曲」はメヌエット楽章を持つ4楽章構成となっています。
そのために、学者の中にはそれらのメヌエット楽章は後から追加されたものだという説を唱える人もいますが、これもまた藪の中です。
しかし、モーツァルトは書簡の中で「ドイツのメヌエットをイタリアに紹介しなければいけない」と述べていますから、その言葉を額面通りに受け取ればドイツ風のメヌエットをイタリアに紹介するためにあえてこのような形式にしたということも納得できます。
<第2回イタリア旅行<(1771年)>
- 交響曲 ヘ長調(第42番) K.75(様式的にも偽作の疑いが強いとされる)
- 交響曲第12番 ト長調 K.110
- 交響曲 ハ長調(第46番) K.96
- 交響曲第13番 ヘ長調 K.112
第1回のイタリア旅行から戻ってわずか5ヶ月ほどでモーツァルトは2回目のイタリア旅行に出発します。今度は、ミラノの宮廷からオペラの作曲と演奏を依頼されてのものでした。
ですから、今回は第1回の旅行のようにイタリア各地を巡るのではなく、基本的にミラノでの長逗留というのが実態でした。
この逗留は71年8月から12月までと、72年10月から73年3月までの2回に分けられます。ちょうど高校生程度の最も多感な時代を音楽の国であるイタリアにおいて、その音楽の中にどっぷりとつかるような生活をおくったことはモーツァルトの「天才」をより確かなものとしたはずです。
わずか9才で交響曲を書いた早熟な子どもは、ただの早熟で終わることなく、本当の意味での「天才モーツァルト」への歩みをはじめたのです。