ザルツブルグにおける宮仕え時代の作品・・・ザルツブルグ交響曲
ミラノでのオペラの大成功を受けて意気揚々と引き上げてきたモーツァルトに思いもよらぬ事態が起こります。それは、宮廷の仕事をほったらかしにしてヨーロッパ中を演奏旅行するモーツァルト父子に好意的だった大司教のシュラッテンバッハが亡くなったのです。
そして、それに変わってこの地の領主におさまったのがコロレードでした。
コロレードは音楽には全く関心のない男であり、この変化は後のモーツァルトの人生を大きな影響を与えることになることは誰もがご存知のことでしょう。
それでも、コロレードは最初の頃はモーツァルト一家のその様な派手な振る舞いには露骨な干渉を加えなかったようで、72年10月には3回目のイタリア旅行、さらには翌年の7月から9月にはウィーン旅行に旅立っています。
そして、この第2回と第3回のイタリア旅行のはざまで現在知られている範囲では8曲に上る交響曲を書き、さらに、イタリア旅行とウィーン旅行の間に4曲、さらにはウィーンから帰って5曲が書かれています。
これら計17曲をザルツブルグ交響曲という呼び方でひとまとめにすることにそれほどの異論はないと思われます。
<ザルツブルク(1772年)>
- 交響曲第14番 イ長調 K.114
- 交響曲第15番 ト長調 K.124
- 交響曲第16番 ハ長調 K.128
- 交響曲第18番 ヘ長調 K.130
- 交響曲第17番 ト長調 K.129
- 交響曲第19番 変ホ長調 K.132
- 交響曲第20番 ニ長調 K.133
- 交響曲第21番 イ長調 K.134
K128~K130は5月にまとめて書かれ、さらにはKK132とK133Kは7月に書かれ、その翌月には134が書かれています。
これらの6曲が短期間に集中して書かれたのは、新しい領主となったコロレードへのアピールであったとか、セット物として出版することを目的としたのではないかなど、様々な説が出されています。
他にも、すでに予定済みであった3期目のイタリア旅行にそなえて、新しい交響曲を求められたときにすぐに提出できるようにとの準備のためだったという説も有力です。
ただし、本当のところは誰も分かりません。
この一連の交響曲は基本的にはハイドンスタイルなのですが、所々に先祖返りのような保守的な作風が顔を出したと思えば(K129の第1楽章が典型)、時には「first great symphony」と呼ばれるK130の交響曲のようにフルート2本とホルン4本を用いて、今までにないような規模の大きな作品を仕上げるというような飛躍が見られたりしています。
アインシュタインはこの時期のモーツァルトを「年とともに増大するのは深化の徴候、楽器の役割がより大きな自由と個性に向かって変化していくという徴候、装飾的なものからカンタービレなものへの変化の徴候、いっそう洗練された模倣技術の徴候である」と述べています。
<ザルツブルク(1773~1774年)>
- 交響曲第22番 ハ長調 K.162
- 交響曲第23番 ニ長調 K.181
- 交響曲第24番 変ロ長調 K.182
- 交響曲第25番 ト短調 K.183
- 交響曲第27番 ト長調 K.199
- 交響曲第26番 変ホ長調 K.184
- 交響曲第28番 ハ長調 K.200
- 交響曲第29番 イ長調 K.201
- 交響曲第30番 ニ長調 K.202
アインシュタインは「1773年に大転回がおこる」と述べています。
1773年に書かれた交響曲はナンバーで言えば23番から29番にいたる7曲です。
このうち、23・24・27番、さらには26番は明らかにオペラを意識した「序曲」であり、以前のイタリア風の雰囲気を色濃く残したものとなっています。
しかし、残りの3曲は、「それらは、—初期の段階において、狭い枠の中のものであるが—、1788年の最後の三大シンフォニーと同等の完成度を示す」とアインシュタインは言い切っています。
K200のハ長調シンフォニーに関しては「緩徐楽章は持続的であってすでにアダージョへの途上にあり、・・・メヌエットはもはや間奏曲や挿入物ではない」と評しています。
そして、K183とK201の2つの交響曲については「両シンフォニーの大小の奇跡は、近代になってやっと正しく評価されるようになった。」と述べています。そして、「イタリア風シンフォニーから、なんと無限に遠く隔たってしまったことか!」と絶賛しています。そして、この絶賛に異議を唱える人は誰もいないでしょう。
時におこるモーツァルトの「飛躍」がシンフォニーの領域でもおこったのです。
そして、モーツァルトの「天才」とは、9才で交響曲を書いたという「早熟」の中ではなく、この「飛躍」の中にこそ存在するのです。
パリ旅行からザルツブルグとの訣別、そしてウィーン時代の作品・・・後期交響曲
「飛躍」を成し遂げたモーツァルトは、交響曲を「連作」することは不可能になります。
「モーツァルトの胸中には、シンフォニー的なものの新しい概念が発展したからである。この概念は、もはや「連作」作曲を許さず、単独作品の作曲だけを可能にするのである」(アインシュタイン)
モーツァルトは73年から74年にかけての多産の時期を過ぎると交響曲に関してはぴたりと筆が止まります。
それは基本的には領主であったコロレードがモーツァルトの演奏旅行を「乞食のように歩き回っている」として制限をかけたことが一番の理由ですが、内面的には上述したような事情もあったものと思われます。
そんなモーツァルトが再び交響曲を書き出すのは、日々強まるコロレードからの圧力を逃れるための「就職先探し」の旅が契機となります。
モーツァルトとコロレードの不仲は1777年に臨界点に達し、ついにクビになってしまいます。そして、モーツァルトはこのクビを幸いとして就職先探しのための旅に出かけます。
しかし、現実は厳しく、かつては「神童モーツァルト」としてもてはやした各地の宮廷も、ザルツブルグの大司教に遠慮したこともあって体よく就職を断られていきます。期待をしたミュンヘンもマンハイムも断られ、最後の望みであったパリにおいても神童であったモーツァルトには興味は持ってくれても、大人の音楽家となったモーツァルトには誰も見向きもしてくれませんでした。
そして、その旅の途中で母を亡くすという最悪の事態を迎え、ついにはコロレードに詫びを入れて復職するという屈辱を味わうことになります。
しかし、この困難の中において、モーツァルトは己を売り出すためにいくつかの交響曲を書きます。
<パリ・ザルツブルグ(1778年~1780年)>
- 交響曲第31番 ニ長調 “Paris” K.297
- 交響曲第32番 ト長調 K.318
- 交響曲第33番 変ロ長調 K.319
- 交響曲第34番 ハ長調 K.338
通称「パリシンフォニー」と呼ばれるK297のシンフォニーは典型的な2管編成の作品で、モーツァルトの交響曲の中では最も規模の大きな作品となっています。
それは、当時のパリにおけるオーケストラの編成を前提としたものであり、冒頭の壮大なユニゾンもオケの力量をまず初めに誇示するために当時のパリでは常套手段のようにもいられていた手法です。
また、この作品を依頼した支配人から転調が多すぎて長すぎると「ダメ出し」がだされると、それにしたがって第2楽章を書き直したりもしています。
何とかパリの聴衆に気に入られて新しい就職先を得ようとするモーツァルトの涙ぐましい努力がかいまみられる作品です。
しかし、先に述べたようにその努力は報いられることはなく、下げたくない頭を下げてザルツブルグに帰って教会オルガニストをつとめた79年から80年にかけての2年間は、モーツァルトの生涯においても精神的に最も苦しかった時代だと言えます。
その証拠に、モーツァルトの生涯においてもこの2年間は最も実りが少ない2年間となっています。
そのため、この2年間に書かれた32番から34番までの3曲は再び「序曲風」の衣装をまとうことになります。おそらくは、演奏会などを開けるような状態になかったことを考えれば、これらの作品はおそらくどこかの劇団からの依頼によって書かれたものと想像されています。
<ウィーン(1782年~1788年)>
- 交響曲第35番 ニ長調 “Haffner” K.385
- 交響曲第36番 ハ長調 “Linz” K.425
- 交響曲第38番 ニ長調 “Prague” K.504
- 交響曲第39番 変ホ長調 K.543
- 交響曲第40番 ト短調 K.550
- 交響曲第41番 ハ長調 “Jupiter” K.551
1781年にモーツァルトは再びコロレードと決定的な衝突を引き起こし、ついにザルツブルグと訣別してウィーンへと向かいます。
今度は以前のようにどこかで就職先を得ようというのではなく、全くのフリーの音楽家として腕一本で生きていくことを決意しての旅立ちでした。
この時に、本当の意味で「音楽家モーツァルト」が誕生したと言えます。
そして、「音楽家モーツァルト」が残した最後の6つの交響曲は、ハイドンが到達した地点よりもはるか先へと進んでしまったことは疑いありません。そして、最後の3つのシンフォニーにおいて、音楽はついに何かの目的のために生み出される機会音楽ではなくて、音楽それ自体に存在価値があると訴える芸術作品へと飛躍していったのです。
「モーツァルトは最後の3曲のシンフォニーを指揮したことも、聞いたこともなかったかもしれない。しかし、そのことはおそらく、音楽と人類の歴史におけるこれらのシンフォニーの位置を象徴する事実である。もはや注文もなく、直接の意図もない。あるのは永遠への訴えである」(アインシュタイン)
世界最初のモーツァルト交響曲全集
モーツァルト交響曲全集:エーリヒ・ラインスドルフ指揮 ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団 1955年~1956年録音
ラインスドルフによるこの偉業は残念ながらほとんど忘れ去られようとしています。
理由はいくつか挙げることができます。
まずは、この全集の録音を行っている途中でモノラルの時代からステレオの時代に移り変わってしまったことがあげられます。さらに悪いことに、この録音作業がが有名どころの後期作品から始まり、初期作品の録音で完成するという手順だったために、結果として有名どころの後期作品がすべてモノラル録音になってしまったことです。(22番以降がモノラル)
第2には、この録音が完成した途端に、ベームがステレオ録音で、ベルリンフィルを擁して完全な全集の録音を始めたことも無視できません。結果としてそのベーム&ベルリンフィルによる録音がモーツァルト演奏のスタンダードとなってしまいました。
しかし、あらためてこのラインスドルフによるモーツァルト演奏を聴き直してみると、忘れ去るにはあまりにも惜しいクオリティを持っていることに気づかされます。
特に、ヨーロッパにおける伝統的なモーツァルト演奏とはどういうものだったのかを知る上では実に貴重な録音です。
演奏に対する評価とは、評価の対象となっている演奏だけをいくら聴いても本当のことは分かりません。
大切なことは、その作品の演奏の歴史を知った上で、その線上においての比較を通してしか個々の演奏の評価や位置づけなどはできるはずがありません。
その意味では、戦後におけるモーツァルト演奏のスタートラインを知る上では絶対に聞いておかなければいけない録音だと言えます。