シューベルトの弦楽四重奏曲は第15番までナンバーリングされていますから15曲存在するというのが一般的な常識ですが、習作時代の作品が大量に失われていたり、残片だけが残っていたりするので、彼がその生涯に何曲の弦楽四重奏曲を残したのかを正確に特定することは不可能です。
また、その辺の詳細を詳しく跡づける能力は私にはありませんので、ここでは一般的に知られている15の作品の概要について述べるにとどめます。
<後期の偉大な作品群への過渡期の作品>
- 弦楽四重奏曲第12番 ハ短調 D.703 <<四重奏断章>>:1820年
もちろんこの作品を含めて後期の作品としてひとまとまりにしていいのかもしれませんし、世間的にはそうする方が一般的です。
しかし、後期の3大作品との間に再び4年のブランクが存在することを考えると、11番で明らかになった課題を解決するための中間報告という位置づけで、この断章一つでこのジャンルにおけるシューベルトの一つの時期を代表させても問題はないでしょう。
この作品はわずか1楽章しか残されていないのですが、ここには私たちがよく知るシューベルトの姿をはっきりと認めることができます。
それは、着心地の悪かった「古典派」という衣装を脱ぎ捨てて、自分の「歌」を存分に歌い上げているからです。そして、その歌が散漫なものにならないように、全体の構成は古典派の決まり事に縛られることなく独自のスタイルを模索していることがはっきりとうかがえます。
その意味では、この作品をもってシューベルトが真にシューベルトとなった後期の入り口と考えても何の問題もありません。
しかし、シューベルトはなぜかこの作品を第2楽章の途中まで書いて放棄してしまっています。なぜか?
おそらくは、このスタイルで4楽章を書き上げるまでにさらに4年の年月を要したと見るのが妥当なのではないでしょうか。
<後期の3大作品>
- 弦楽四重奏曲第13番 イ短調 D.804 <<ロザムンデ>>:1824年
- 弦楽四重奏曲第14番 ニ短調 D.810 <<死と乙女>>:1824年
- 弦楽四重奏曲第15番 ト長調 D.887:1826年
シューベルトをロマン派の音楽家に数え入れていいのかは少しばかり躊躇いがありますが、それでもこの3つの作品がベートーベンによって完成された弦楽四重奏曲というジャンルに新たな局面を切り開き、ロマン派へと大きく扉を開けたということに対しては誰も異存はないでしょう。
この3作品については、シューベルトは友人に宛てて次のように述べています。あまりにも有名なものですが、知らない人は知らないわけですからあらためて載せておきましょう。
「僕はこの世で最も不幸で、哀れな人間だと感じている。」と人生に対する悲観的な見方を吐露しながらもシューベルトは次のように述べています。
「歌曲のほうでは、あまり新しいものは作らなかったが、その代わり、器楽の作品をたくさん試作してみた。ヴァイオリン、ビオラ、チェロのための四重奏曲を 2曲、八重奏曲を1曲、それに四重奏をもう1曲作ろうと思っている。こういう風にして、ともかく僕は、大きな交響曲への道を切り開いていこうと思っている。」
ここで、述べられてる「ヴァイオリン、ビオラ、チェロのための四重奏曲を2曲」というのは「ロザムンデ」と「死と乙女」を指しますし、「それに四重奏をもう1曲作ろうと思っている」というのは第15番の事であることは明らかです。
そして、重要なことは、それらの作品は第8番のハ長調シンフォニーとして結実する「大きな交響曲」創作への一過程として明確に意識された創作活動だったと言うことです。
つまり、第11番の中で示された課題を、シューベルトはロマン派の交響曲へと続く道の中に解決を見いだしたといえます。つまり、シューベルトは古典派の衣をはっきりと脱皮して彼の内面に渦巻く「歌」を優先し、そしてその「歌」を入れるための新たな器を構築し始めたのです。
1824年から26年というと、ベートーベンがその最晩年において弦楽四重奏曲の分野で独自の作品を次々と生み出していた時期と重なります。それらは、疑いもなく古典派音楽の一つの集大成とも呼ぶべき作品群です。そして、その様な偉大な作品が生み出される傍らで、20代の若者(ただし彼には残された時間は2年しかなかったのですが)の手からひっそりと人間の内面に渦巻く激情や深い情緒をかくも率直に吐露する作品が生み出されていたとは何という驚きでしょう。
歴史が移り変わるときと言うのは、もしかしたらこのように音もなく静かに新しいページがめくられるものなのかもしれません。
ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団 1950年~1953年年録音