アイロニーか中途半端か~プロコフィエフ:交響曲第5番

長い間取り上げずに放置していた作品です。
理由は簡単でして、音楽史における専門家の評価は高いのですが、個人的にはどうにも「よう分からん」作品だったからです。

Sergei Sergeevich Prokofiev

何度聞いてもピントこないのです。
そして、そのピントこない理由は、プロコフィエフのような偉大な作曲家に対して恐れ多い物言いになるのですが、どうにこうにも中途半端な感じが拭いきれないのです。

この作品が作曲されたのは1944年です。時は言うまでもなく独ソ戦の真っ最中であり、ショスタコーヴィチも祖国愛に燃えて第7番の交響曲(レニングラード)を書き上げていた時代です。
さらに言えば、一度はロシア革命によって祖国を離れたたプロコフィエフですが、ソ連からの帰国要請を受けて母国に帰還を果たした時期とも重なります。

そんな時期に、彼自身が祖国のために何か偉大な仕事をなさなければならないと思い定めて創作したのがこの第5番の交響曲でした。

「戦争が始まって、誰も彼もが祖国のために全力を尽くして戦っているとき、自分も何か偉大な仕事に取り組まなければならないと感じた。」

しかし、聴いてみれば分かるように、20世紀の中葉に生み出された交響曲としては、なんだか先祖帰りしたような雰囲気が全曲に漂っています。
ですから、1945年に戦勝の祝砲が鳴る中で作曲者自身の指揮で初演されたときは、大きな喝采につつまれることになります。

しかし、そう言う「分かりやすさ」に重点が置かれた作品なのかと思って聴いていると、それもまたどこか違う雰囲気も漂っています。
例えば、冒頭の第1楽章などは管楽器によって親しみやすい旋律が歌い出されるのですが、その旋律がどれもこれも中途半端で歌いきられることなく別の場面へとうつっていきます。
もちろん、歌いきれないのはプロコフィエフの創作力の衰えなどではなく、意図的に転調を繰り返すことでわざとそう言う中途半端な感覚を生み出しています。

第2楽章も、冒頭のクラリネットの旋律は何とも言えず不安定で、それを支える伴奏部分は楽章全体にわたって不気味なまでの同一リズムを執拗に繰り返しています。

第3楽章に至っては、そのような説明の必要もないほどのある種の不気味さが全体を貫いています。
しかし、一つ一つの旋律は20世紀の音楽に特有な晦渋さは微塵もないので逆に困ってしまいます。

そして、最終楽章では、もう一山ふた山あってもいいだろうにと思うのですが、突然のように終止します。
つまりは20世紀的な新しさにも、前世紀的な親しみやすさにも徹しきれない、それ故に個人的には(恐れ多い言い方で申し訳ないのですが)中途半端な感じが拭いきれないのです。

結局は、私がこの作品から感じ取れるものは「アイロニー」だけです。

ですから、プロコフィエフが「わたしの第5交響曲は自由で幸せな人間、その強大な力、その純粋で高貴な魂への讃美歌の意味を持っている。」と後年に語っているようですが、それもまた、どうにも額面通りには受け取れません。
なぜなら、「賛美歌」と「アイロニー」が同居するなどと言うことは有り得ないからです。

さらに言えば、「アイロニー」には皮肉やあてこすりという意味以外に、自分は無知を装いながら、知者を自認する相手と問答を重ねる中で、逆に相手が無知であることをあらわにするという意味も持っています。
いわゆるソクラテスの問答法です。
だとすれば、上で述べたような小賢しい理屈付けなどは、それを通して「中途半端」などと理屈付けする奴の無知をさらけ出すのが目的だったりもします。

でも、こういうやり方ってどこか狡いですよね。
だから「アイロニー」という手法がどうにも好きになれません。やはり、どこまで行っても私にとっては相性のよくない作品です。

セル&クリーブランドの一つの頂点

ジョージ・セル指揮 クリーブランド管弦楽団 1959年10月24日&30日録音

いまいちピンとこない作品と書いたのですが、さすがにこのコンビで聴いてみると、それなりに面白く聴くことができます。
まあ、こういう書き方は「贔屓の引き倒し」みたいになってしまう恐れもあるのですが、50年代という時代を考えてみると、恐ろしいまでの「うまさ」です。

これはいつも書いていることなのですが、オケの性能は90年代以降飛躍的に向上します。
しかし、そう言うレベルで比較してみても、これを上回るほどの精緻さと凄味を表現できるオケは現在においてもそんなには存在しないと思います。

ひと言で言えば、この演奏は、作品の表面的な「分かりやすさ」「旋律の美しさ」などには一切寄りかかっていません。
このコンビが実現しようとしてるのは、そう言う表面的な口当たりの良さではなくて、そういう物の背景にプロコフィエフが仕込んだ精緻な音の仕組みを誰にも分かるように再現してみせることです。

ですから、ある意味では、これは極めて「分かりやすい」演奏だと言えます。

特に、大音響でオケが炸裂するところでは、その内部構造が手に取るように分かるような演奏になっています。
その事は、ステレオ録音の時代になった恩恵もあるのですが、肝心のオケの響きが「炸裂」もしくは「爆裂」していたのではこのような「分かりやすさ」を実現することはできません。

その意味で言えば、一番の聞き所は最終楽章にと言うことになるのでしょうか。
突然の終止も、このコンビの手にかかると実に「格好いい!!」のです。

なお、録音に関しては、左右に分離しすぎて中抜けしているという指摘があるようですが、私のシステムで聴く限りそのようなことは全くありません。
この時代のステレオ録音としては充分に及第点に達しています。精緻さだけでなく、このコンビのパワフルな響きも充分に堪能できる優秀録音です。


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