おそらく15年ほど前に書いた文章かと思うのですが、捨てるに忍びないので拾い上げておきます。(^^;
- レナード・バーンスタイン指揮 アムステルダム・コンセルトヘボウo. 85年録音
- クラウス・テンシュテット指揮 ロンドンpo. 79年録音
- サー・ジョン・バルビローリ指揮 ベルリンpo. 64年録音
- カルロ・マリア・ジュリーニ指揮 シカゴso. 76年録音
- ジョージ・セル指揮 クリーブランドo. 69年録音
- ミヒャエル・ギーレン指揮 南西ドイツ放送o. 90年録音
とりあえず、6枚のCDを選びましたが、これは2枚ずつの3組に分かれます。
バーンスタイン・テンシュテット組、バルビローリ・ジュリーニ組、そしてセル・ギーレン組です。
9番という交響曲は、ある意味では行き止まりです。
交響曲という概念を「第1楽章にソナタ形式をもった、一般的には4楽章構成からなる比較的規模の大きい管弦楽曲」と定義すれば、この交響曲はピッタリとあてはまるのですが、その雰囲気は古典派の交響曲とはまったく異なっています。
とにかく複雑です。それはいろんな意味で複雑です。
たとえば、ソナタ形式というスタイル一つをとりあげても、ここで展開されるソナタ形式は複雑怪奇で難解の極みです。
調性もまたしかりです。
よく言われるように、これは調性を持った音楽の極限まできています。
しかし、この辺の専門的なことは、実はよく分からないので、これ以上は書きません。(書けません、だな、正確には)
問題は、その複雑さをいかに指揮者が料理しているかです。
まずは、その複雑さに、人間にとって、最も「不可解」で「不条理」な「死」というもの見いだすタイプ。
指揮者と作曲家の波長が完全にあって、まさに指揮者が我が事のように情念を燃え上がらせ、たたきつける演奏を展開します。
言うまでもなく、バーンスタイン組です。少し方向性は違いますがテンシュテット盤などもこの仲間にはいるでしょうか。
次は、その複雑さを徹底的に分析して、複雑でなくしてしまうタイプ。
どれほど混沌とした現実であっても、そこに科学の光をあてて分析につとめれば、根底に潜む真理は常にシンプルなんだよ、と煙草をくゆらす、セル・ギーレン組。
そして、最後は、とにかく職人技で聞けるように料理しちゃうと言うバルビローリ組。
その料理法でなぜ美味しく食べられるのかはよく分かんないが、とにかく経験的に料理法だけはよく知っている腕利きのシェフ。
こう書くと、なんだかバルビローリやジュリーニを馬鹿にしているように聞こえるかもしれませんが、それはとんでもない誤解であり、間違いです。
昔から、「下手な考え休むに似たり」といいます。
体にしみ込んだ芸で、かくも複雑で巨大な交響曲を一流の料理に仕上げてしまうというのは、並大抵の事ではありません。
今の時代に最も欠けているのはこのような優れた芸を持った指揮者です。
今はあまりにも「口ほどでない」人が多すぎます。
実際、今回この駄文をつづるために(追記:おそらく今から15年以上も前の話だと思います)、手持ちのCDを聞き直してみた(こう書くと簡単ですが、これを実行するのはかなり大変です。)のですが、10種類程度のCD(この6枚以外に、ワルター、クレンペラー、ガリティーニ、ブーレーズなど)の中で一番気に入ったのはバルビローリ盤でした。
ただ、その理由もよく分かっています。
マーラーの9番を10枚前後も続けて聞くという、普通では考えられない(^^;;、異常な体験の中では、とにかく安心して聞けるという特徴は、ポイントが非常に高くなります。
バーンスタインのような演奏は、こういう状況下では、いささかうんざりさせられるというのも事実です。
優れた美点は感じつつも、あれこれとあらが目立つものはポイントが低くなりがちのようです。
例えば、ワルターの晩年のスタジオ録音は響きが薄すぎますし、クレンペラーの演奏は頑固にすぎてちょっと疳に障ります。
ブーレーズの演奏は一部では評価が高いようですが、まるでセルのコピーです。
つまり、長所、美点よりは短所ばかりが目について、いつしか減点法のスタンスになっていることに気づきます。
このあたりに、評論という仕事の難しさがあるのかもしれません。
しかし、このようにある程度をまとめて聞いてみる事によって全体像を俯瞰できるというのも事実で、それはそれで、得難い経験ではありました。
そんなわけで、以上のようなバイアス、もしくはフィルターがかかっていると言うことを知っていただいた上で、それぞれのコメントを書いていきたいと思います。(続く)