マーラー:交響曲第9番を聞き比べてみれば(2)

まずは、バーンスタイン盤ですが、情念むき出し派の筆頭格であることは間違いありません。

これほどまでに思いの丈をぶちまけた、痛切極まりない演奏はそうあるものではありません。
そのかわりに、音を磨いたり、細部を整えると言うことはほとんどしていません。おそらくバーンスタインはそんなことにはまったく興味もなければ、意味も見いだしていないと思います。

アルバン・ベルクがこの9番の交響曲についてつづった有名な文章があります。

「この楽章全体は(注;第1楽章をさしています)死の予感を根底としています。この予感は絶えずくりかえし、その姿をあらわします。・・・そして、最も深い、しかし、最も苦痛に満ちた生の快楽の真っ最中に、死が最高の力を持って自己の登場を知らせるのです。
身の毛のよだつようなヴァイオリンとヴィオラのソロ、そして騎士的な響き、それは甲冑に身を固めた死なのです。」

この時代がかった大仰な物言いがそのまま音となり音楽となったのが、このバーンスタインの演奏だと思えば間違いがないでしょう。

次にテンシュテットですが、世間的にはあまり評価の高くない演奏です。

彼のマーラー演奏は今や一つの定番となっていますが、9番は評価されることが少ないようです。

しかし、今回聞き直してみて、そんなに無視されるほどの駄演とは思いませんでした。
基本的にはバーンスタイン組に入る演奏だとは思うのですが、異なる点は細部への気配りがしっかりとされていることです。

それが美点と感じる人はこの演奏に高い点数をつけるでしょうが、そういう細部への気配りが逆に音楽全体の推進力を殺いでいることも事実で、その点がテンシュテットらしくないというのも事実です。
特に後年の一連のライブ録音を聞いた耳からすれば、確かに物足りなさは感じるでしょうが、それは一連のライブ録音が凄すぎるのであって、これだけを単独で聞けば十分に評価に値する優れた演奏です。

ただ、録音のバランスが変なのが残念です。
いわゆる中音域の下の方(オーディオ初心者が重低音と間違う帯域)が妙に膨らんでいてボンボンと変な音がします。ラジカセあたりで聞けばちょうどバランスがとれるような録音で、EMIのプロデューサーを識見を疑うような出来です。
ついでながら言っておくと、このあたりのEMIの録音は殆ど変です。
もごもごと中央部に音が固まった冴えない音質のCDが目に付きます。

テンシュテットの録音で言うと、ナイジェル・ケネディといれた一連のコンチェルトの録音が典型で、まったく持ってひどいものです。

この二人組と対極にあるのが、セルとギーレンの演奏です。

セルの録音は、クリーブランド管弦楽団がセルの生誕100年を記念して作成した自主制作盤なので、今後入手するのは殆ど不可能だと思います。(この手のCDが中古市場にでることは滅多にない、いや絶対にないと言っていいほどの確率です。)
ただ、昨年海賊盤で、別テイクと思われる9番のCDが発売されました。これなら入手可能かもしれません。

このコーナーでは、そういう入手困難なCDは避けるようにしているのですが、まあセルを心から敬愛しているので、その辺はご容赦ください。

まずは、ギーレン盤です。一言で言えば、極限まで力感を押さえて、響きの純度を追求した演奏だといえます。
こういうオケの鳴らし方はどこかで聞いたような気がするな、と記憶をたどれば、「チェリビダッケ」。

私の記憶では、シューマンの4番やブルックナーの8番で、このような力感を排したガラス細工のような繊細な音の鳴らし方をしていたような気がします。
この両者、考えてみればご近所同士ですから、以外と地下水脈がつながっているのかもしれません。

とにかくオケをパワフルに鳴らして情念をぶつけまくるバーンスタインの演奏とは驚くほどに正反対の演奏です。
これ以上鳴らすと音が濁り、割れると言う限界のところでストップをかけています。

そして、そのような自制の中で作りされる純粋で繊細きわまりない音色を駆使して、マーラーがスコアに書き込んだ微妙なニュアンスを表現し尽くしています。
そして、そこに展開する世界は、まさに白昼夢です。

これと比べれば、セルの演奏はもう少し実体感があります。
誰かがセルの演奏を評して「白昼夢」と語っていましたが、ギーレンの演奏を聴いてしまうと、はるかにボディ感があります。
陽炎のようなギーレン盤と比べれば、ある種のしっかりした手触りを感じ取ることができます。
言葉は悪いですが、「いかがわしさ」ではギーレンの演奏は群をぬいています。

そして、これら両組と比べれば、バルビローリやジュリーニの演奏は、なんと安心感の漂う演奏でしょう。

もちろん、こういう言い方は反面で否定的な側面を持つことも事実ですが、決して安全運転の無難な演奏で終わっているわけではありません。

実に曖昧な言い方で申し訳ないのですが、押さえるべき所はきっちりと押さえているので、誰が食してもそんなに不満もでず、十分以上に満足を与えてくれる演奏であることは事実です。
しかし、万人に受け入れられると言うことは、それに入れ込む人もいないと言うことの裏返しではありますが、それがスタンダードというものの宿命でしょう。

そして、今日のマーラー演奏の傾向を見てみると、大勢は分析派で、一部に情念ぶっちゃけ派が存在しますが、こういう偉大なマイスターが姿を消しつつあるのはとても残念なことです。

昨年、イギリスのグラモフォン誌が、20世紀を様々な形で総括していましたが、その中に、20世紀を代表する指揮者というのがありました。
そこでは、なんとバルビローリが、フルトベングラーやトスカニーニ、そしてクレンペラーなども押しのけて、堂々の2位に君臨していました。
確かにこのようなイギリスの国粋主義も大したものですが、このマーラーの演奏を聞くと、日本での彼の評価はあまりにも低すぎるのかもしれません。

まあ、そんなところですが、一枚だけ残せと言われれば、おそらくはバルビローリの一枚を残します。
まあ、お友達になるなら、ほとんどの人がバルビローリ・ジュリーニ組を選ぶでしょうね。
後の二組はいろんな意味で怖すぎます。