時代の変化に己を添わせることで自分の強みを見失った~クリスチャン・フェラス

フェラスは1957年にフォーレのソナタを録音しているのですが、その7年後に、もう一度録音をしています。

Christian Ferras

フォーレ:ヴァイオリンソナタ第1番 イ長調 作品13 (vn)クリスチャン・フェラス (P)ピエール・バルビゼ 1957年5月15日~19日


それほどメジャーではない作品を、わずか7年という短いスパンで再録音するというのは異例なことなので、それはレーベル側の要望ではなくてフェラス自身の要望だっただろうことは想像されます。そして、そう言う演奏家側の要望でこういう再録音が行われると言うことは、この時代のフェラスの立ち位置がかなり高かったことも窺わせてくれます。

この二つの録音はわずか7年しか隔たっていないのに、明らかに音楽の形は大きく変わってしまっています。そして、その違いを問いたかったので再録音を要望したのでしょう。

(vn)クリスチャン・フェラス (P)ピエール・バルビゼ 1964年9月21日~25日録音

フォーレ:ヴァイオリンソナタ第1番 イ長調 作品13
フォーレ:ヴァイオリンソナタ第2番 ホ短調 作品108

その変化とは、先にチャイコフスキーのコンチェルトで述べたことがそっくりそのままあてはまります。
フェラスの自殺をカラヤンとの関係に求める説は昔からあったのですが、おそらくは彼自身を追い込んでいったであろう演奏様式のチェンジは、カラヤン以前から芽生えていたことをこの録音は教えてくれます。もちろん、65年にカラヤン&ベルリンフィルとの関係を正式にスタートさせる以前からカラヤンとの関係はあったのでしょうが、主観性を大切にする彼本来の姿を変えようとしたのは彼の内発的な思いからであったことは疑いないようです。

考えてみれば、その様な変化が外から強いられたものならば、その変化が己の身に添わないものだと分かった時点で容易に捨てることが出来たでしょう。
しかし、その変化が内発的なものであれば、それがなかなか身に添わないと言う事実は変化を成し遂げることの出来ない己をせめることに繋がってしまいます。

時代の変化の中で、あるべき己の姿をしっかりと認識ながらも、それでも「変わってはいけない己の本質」を守り抜いていくというのは難しいことだったのでしょうか。

この64年録音のフォーレは、57年盤と較べればはるかに客観性が高くてプロポーションも立派です。
57年盤で感じたある種の不安定さはほぼ払拭されていますし、それでいてフェラス本来の美音も損なわれていません。

チャイコフスキーの項でも述べたように、演奏というものを幾つかの観点に細分化して得点化し、それを平均してみれば64年盤の方がかなり高評価になるはずです。ですから、第2番もあわせて録音されていると言うことも含めれば、フェラスのフォーレは64年盤こそが代表盤と言うことになるはずです。

しかし、残念なことに、57年盤のある種の不安定さの中から感じ取れた繊細な光と影の交錯、青年が持つある種の思い詰めた青白さのようなものはすっかり消えてなくなっています。
そして、我が儘な聞き手は言うのです。

何だ、こんな風に立派な方向性で演奏するならば、他にももっといいものがある。

例えばハイフェッツの55年盤!!

フォーレ:ヴァイオリンソナタ第1番 イ長調 作品13 (vn)ヤッシャ・ハイフェッツ:(P)ブルックス・スミス 1955年12月15日&16日録音

フェラスの57年盤よりもさらに古い録音ですが、この作品がもつ、古典的と言えるほどの明晰さをこれほど鮮やかに描ききった演奏は他には思い当たりません。そして、その明晰さゆえに光と影が淡く交錯するのではなく、光と影が明確に二分化されてしまっているのですが、その潔さが逆に生理的な快感に繋がってくるような演奏です。

結局、フェラスは時代の変化に己を添わせることで、自分が持つ最大の強みを見失ってしまったような気がするのです。
もちろん、人によっていろいろな見方はあるでしょうが・・・。