チェンバロ~過渡期の意味

カークパトリックはチェンバロ演奏の歴史の中においてみれば、いわゆる過渡期に位置する演奏家だと言えます。
そして、その「過渡期」であったがゆえに演奏家としての評価は次第に後景に追いやられ、スカルラッティのカークパトリック番号に代表されるような「学者」としての評価の方に光が当てられがちです。

Ralph Kirkpatrick

今さら言うまでもないことですが、20世紀の初め頃にはチェンバロという楽器は滅びつつある存在でした。その滅びつつある楽器に光を当てたのがランドフスカでした。

しかし、彼女が光を当てるために使用したのは、20世紀のコンサート会場で演奏してもその響きが隅々にまで届くような「モンスター・チェンバロ」でした。その特徴は、鋼鉄のフレームで強化されたボディに鋼鉄のスチール弦を目一杯の力で引っ張って取り付けたものでした。
そのおかげで、本来はサロンのような狭い会場で繊細に響くべきチェンバロが、コンサート会場の隅々にまで鳴り響くようになったのです。

ランドフスカ・モデル(プレイエル社)

世間では、このような20世紀に入ってからに新たに制作されたチェンバロのことを「モダン・チェンバロ」と呼ぶようになりました。そして、その様な「モダン・チェンバロ」の中でもとりわけモンスターだったのがランドフスカが使っていたプレイエル社の「ランドフスカ・モデル」と呼ばれるチェンバロでした。

しかし、古楽器の復興が彼女の手によって始められると、次第にバッハやスカルラッティの時代のクラヴィーア曲はその様な「モンスター・チェンバロ」で演奏されていなかったことが知られるようになり、それと歩を同じくして60年代にはいるとバロック時代のチェンバロが忠実に復刻されるようになりました。
つまり、カークパトリックはその様な時代に移り変わる過渡期に演奏活動を行ったのです。

ちなみに、彼が愛用していた楽器はいわゆるランドフスカ・モデルと呼ばれたプレイエル社のチェンバロから始まって、チッカリング社やノイペルト社のチェンバロであり、そのいずれもが今の自から見れば「邪道」と見なされるモダン楽器タイプのチェンバロでした。
そして、ここで紹介しているフランス組曲は、ノイペルト社のバッハ・モデルを使用して録音されました。

バッハ:フランス組曲第1番 ニ短調 BWV812 (チェンバロ)ラルフ・カークパトリック: 1957年5月6日~12日録音

ですから、ピリオド楽器(忠実に復刻されたチェンバロ)の響きに馴染んだ耳からすれば、その野太い響きに違和感を感じるかもしれません。いや、きっと感じるでしょう。
基本的にピリオド演奏が嫌いな私だって、この響きには違和感を感じますし、何よりもこういう響きでバッハを演奏したいのならばピアノを使えばいいのに、と思ってしまいます。

そう言えば、カークパトリックが活躍した若い頃には、チェンバロ奏者というのはピアニストになれなかった落ちこぼれのための仕事だと思われていました。
しかしながら、カークパトリックがその様な存在でないことは明らかであり、何よりも「モダン・チェンバロ」しかこの世にないという制限された環境の中で古楽の復興に力を尽くしたのです。

ちなみに、60年代に入ってバロック時代のチェンバロが復刻され始めると、彼は真っ先にモダンチェンバロを捨ててピリオド楽器を使用するようになっています。

そう言う意味も含めて、この演奏は過渡期におけるやむにやまれぬ表現だっ事は見ておく必要があります。

ただ、そうは思いつつも、この豊かであり何時までも響きが減衰しないチェンバロという違和感の中に身を浸していると、次第に妙な快感が芽生えてくるのも否定できない事実です。
そして、今となってはピリオド楽器のチェンバロよりも、モダン楽器のチェンバロの方が希少品となっていますから、聞きたいと思ってもなかなか聞けない響きであることも事実なのです。

そう言う意味では、面白いと言えば面白い表現ではあります。