希有な世界を楽しむのも、また楽しからずや~晩年のワルター

ワルター最晩年の録音となった一連のコロンビア響との録音は、いろいろと問題点が指摘されます。その最たるものが、臨時編成のオケであったことと、その編成がやや小さめだったことからくる響きの薄さです。

しかし、ワルター&コロンビア響の録音を集中的に聞いてみて、それ以上に問題だと思ったのは、響きの薄さよりは響きの質でした。
一言で言えば、ワルターが愛した低域をしっかりと響かせたピラミッドバランスの重厚な響きとは真逆とも言うべき、アッケラカンとした明るめの響きに違和感を感じる場面が多々ありました。とりわけ、金管群の脳天気と言っていいほどの乾いた響きは、場合によってはハリウッドの映画音楽を聴いているのではないかと言う錯覚に陥らせるほどの「威力」を持っていました。

さて、肝心のワルターはこの響きをどう思ったのでしょうか?

おそらく、違和感を感じたとは思うのですが、既に一度は引退を表明した指揮者にとって、オケの響きを一から作り直すというような骨の折れる仕事は願い下げにしたかったでしょう。
いや、たとえその気があったとしても、ワルターにはそのための時間は残されていませんでした。

そこで、彼は響きの問題は棚上げにして、それよりは彼の愛した音楽たちをじっくりと歌い上げることに力を傾注したようです。

Bruno Walter

40年代から50年代前半の、現役バリバリだった頃の演奏と比べてみると、そのどれもが遅めのテンポで、一つ一つのメロディを実に念入りにじっくりと歌い上げていることが聴き取れます。
なるほど、パンクファッションとまでは言いませんが、アメリカ西海岸のカジュアルなファッションを身にまといながら、伝統的なヨーロッパのスタイルで歌っているというのは、実に興味深く面白みのある組み合わせだと言うこともできます。

そして、そう言う録音を次々と(シューベルトのハ長調シンフォニー、マーラーの1番や9番、ブラームスの2番に3番などなど・・・)聞いているうちに、もしかしたら、ワルターはこのオケの響きを次第におもしろがって、好きに振る舞わして自分も楽しんでいたのではないかと思うようになってきました。
特に、シューベルトのハ長調シンフォニーで金管群が実に楽しげに吹き鳴らしているのを聞いていると、これは指揮者のワルターが面白がっていないと、いくら何でもここまで脳天気にはやれないだろうと思わせられました。
そう思うと、この一連の録音に、今までとは違うもう一つの顔が浮かび上がってくることに気づかされます。

シューベルト:交響曲第8(9)番 ハ長調 「ザ・グレート」 ワルター指揮 コロンビア交響楽団 1959年1月31日&2月2、4、6日録音


もしかしたら、ワルターは、この新しい時代を感じさせる響きを作り出す若者たち(きっと、このオケのメンバーの多くは若者だと思います・・・何の根拠もありませんが^^;)に、次第に深い愛着を感じていったのかもしれません。
そして、最後は自らの「遺言」とも言うべき音楽への「思い」をこの若者たちに託したのではないでしょうか。

確かに、名盤選びにしか興味のない人にとっては視野の外にある録音でしょう。
もちろん、シューベルトのハ長調シンフォニーやマーラーの1番などは名盤の誉れは高いのですが、それでもワルターの最良の演奏家と言われればためらわざるを得ません。

マーラー:交響曲第1番 ニ長調 「巨人」 ワルター指揮 コロンビア交響楽団 1961年1月14、21日&2月4、6日録音


やはり、ワルターの素晴らしさは大戦前のヨーロッパでの録音か50年代前半までのニューヨークフィルとの録音こそが最良のものでしょう。
それは間違いはありません。

しかし、ベストだけを求めていたのでは、より豊穣なる周辺の世界を見落としてしまいます。
このミスマッチとも思える「老人と若者(だと思うのですが・・・)の出会い」が、言葉をかえれば、「ワルターの伝統的な美意識とオケの現在的な感覚との絶妙なる融合」によって、実に希有な音楽が出来上がりました。

そう言う希有な世界を楽しむのも、また楽しからずや・・・です。