主観的解釈の客観的表現がみせる至芸の極致~ベネデッティ・ミケランジェリ

ラフマニノフ:ピアノ協奏曲第4番 ト短調 作品40

(P)アルトゥーロ・ベネデッティ・ミケランジェリ エットーレ・グラチス指揮、フィルハーモニア管弦楽団 1957年3月7日~8日 & 10日録音

ミケランジェリというピアニストの凄さがひしひしと伝わってくる録音が、このラフマニノフの4番とラヴェルのト長調協奏曲です。
ラヴェルのコンチェルトに関しては「精密機械のように精緻なラヴェルのスコアが、精密機械のようなミケランジェリのピアノによって、この上もなく精緻な音へと変換していく様を見せつけてくれる」と評したのですが、ラフマニノフに関しても全く同じ事が言えます。

しかし、ラフマニノフの音楽は「スイスの時計職人」と称されたラヴェルの音楽とは本質的に異なります。
その様な音楽に対しても全く同じアプローチで挑戦するところにミケランジェリのミケランジェリたる存在価値があるのでしょう。

このように音楽を精緻に組み立てて、その姿をこの上もなくクリアに描き出していく演奏スタイルは一見すればきわめてザッハリヒカイトなものにうつります。
しかし、ここに存在するのはその様な「客観性」に胡座をかいた「楽譜に忠実な演奏」とは真逆なものです。

Arturo Benedetti Michelangeli

若き時代にコルトーから「リストの再来」と言われたエピソードは有名ですが、彼の凄さはそう言うテクニック面での凄さではなくて、彼がイメージする氷のように精緻な音楽の姿を譜面から描き出すところにこそあるのだと思います。
ですから、それはスコアに忠実という「即物主義」的な仮面をかぶりながらも、その音楽はきわめて「主観的」であり、その主観的なイメージを聞き手に納得させるために彼のテクニックは奉仕しているように聞こえるのです。

ここに存在するのは、徹頭徹尾、ミケランジェリという異形の天才の耳に響いたラフマニノフの音楽です。
ですから、ここで聞けるのは「ザッハリヒカイト」とは正反対のきわめて強固な「主観性」に貫かれた演奏です。

そこで、思い浮かぶのがムラヴィンスキーです。
ムラヴィンスキーもまた、一見すれば高い「客観性」に貫かれているように見えながら、その本質は徹底的な「主観性」の貫徹でした。
その演奏スタイルをある人は「主観的解釈の客観的表現がみせる至芸の極致」と評したのですが、まさにその言葉をそっくりそのままミケランジェリにも奉りたいと思います。

そして、このようなスタイルをとる限り避けて通れないのは「完璧性」への異常なまでの執着です。
ムラヴィンスキーは常人の耳からすればどれほど素晴らしい演奏を成し遂げたとしても、演奏会の後には「あそこも駄目だった、ここも駄目だった!!みんなどれこれも駄目だ!!」と心の底から嘆き悲しみ落ち込んでしまうのが常だった伝えられています。彼の理想は、常人には考えも及ばないほど高く、その高みを目指して挑み続けることを厭わなかったのです。

ミケランジェリもまた「キャンセル魔」として、そのために発生する膨大な「違約金」が彼の生活を圧迫するようになっても、そのスタイルをあらためることはありませんでした。
また、共演する演奏家に対する要求も厳しくて、カルロス・クライバーとベートーベンのコンチェルトの録音に臨んだときも、クライバーの楽譜にある書き込みが承認できないと言って二度と録音スタジオに戻ってくることはありませんでした。

そんな気難しいミケランジェリをなだめすかして70~80年代にまとまった録音を成し遂げた録音プロデューサーがコード・ガーベンでした。
しかし、ガーベンはその様な日々を「綱渡り」と記しています。
そんな綱渡りの15年間が破綻したのは、諍いとも言えない一言、録音スタジオの照明に関してミケランジェリがクレームをつけたときに「それは私の責任の範囲外だ」としてガーベンが謝罪しなかったからでした。

ミケランジェリはその一言で、長きにわたるガーベンとの盟友関係を一方的に断ち切ってしまったのです。
この70~80年代の、音楽の骨格が透けて見えるよう透明にして精緻な音楽を聞くとき、そこから見えてくるのはこの上もなく孤独な一人の男の姿であり、その美しさに聞き惚れながらも痛々しさも感じてしまうのです。

その事を考えれば、この57年の録音には、後年の傷だらけの孤高な姿はありません。
精緻な演奏スタイルは変わらないものの、その奥底からはミケランジェリの中でうごめく情念の発露は感じ取れます。

しかし、彼は年を経ることで傷つく事が多かったのでしょうか。
その度に彼は精緻さをより強固に武装化することで、その精緻という鎧の中に情念を押し殺していったのかもしれません。

コードとの15年にわたる録音の歴史はミケランジェリにとっては人としての情念をますます鎧の中に押し殺さざるを得なかった営みだったのかもしれません。
そうだとすれば、「照明」の問題はその様な時の流れを絶ちきるための切っ掛けにしかすぎず、この二人の関係は遠からず破綻せざるを得なかったのかもしれません。

人間にとって、「主観的解釈の客観的表現がみせる至芸の極致」はこの57年の録音あたりが限界だったのかもしれません。

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