バッハのヴィオリン協奏曲は美しい。それこそ、ため息の出るほど美しい。
とりわけ、この2つのヴァイオリンのための協奏曲のラルゴ楽章は、バッハが書いた美しい旋律のベスト5には入るのではないでしょうか。
だから、どんな様式論議をされようが、最後は音楽が美しくなければ、それはもう聞く価値がないのです。
バッハ:2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV1043
(Vn)ジョコンダ・デ・ヴィート & イェフディ・メニューイン:アンソニー・バーナード指揮 フィルハーモニア管弦楽団 1953年9月14日~15日録音
このラルゴ楽章を聞くと、必ず「愛は静けさの中に(何という邦題だ!!原題は「Children of a Lesser god(神が作りし小さき子ら)」を思い出します。そして、マーリー・マトリンの美しさが、そのままこの音楽の美しさに結びついてしまっています。
そう言う意味で言えば、このデ・ヴィートのヴァイオリンには、あの匂い立つようなマーリー・マトリン(この時21才)の美しさはありません。
第1楽章から、何となくギクシャクした感じがするのですが、それはどことなく、リヒター達がこれから切り開いていく厳格なバッハへの変容がこの頃から始まっているのかなと思わせます。
それに続くラルゴ楽章もどこか華やぎとは無縁です。
しかし、若ければそれだけで値打ちがあるような今の日本では理解しづらいかもしれませんが、ここにはそう言う類の美しさとは別の美しさがあることが分かってきます。
そう言えば、「逃げ恥」で石田えりが「貴方は若いと言うことにとても価値をおいているようね」と啖呵を切る場面がありましたね。
百合:訂正箇所が多すぎて、どこから赤を入れたらいいものか。あなたは随分と自分の若さに価値を見出しているのね。
五十嵐:お姉さんの半分の年なので。
百合:私が虚しさを感じるとしたら、あなたのように感じている女性が、この国にはたくさんいるということ。あなたが価値がないと切り捨てたものは、この先あなたが向かっていく未来でもあるのよ。バカにしていたものに、自分がなる。それって辛いんじゃないかな。自分に呪いをかけないで。さっさと逃げてしまいなさい。
もっとも、そう思われてしまうのは、本当の意味で「様子がいい」大人や「姿のよい」大人がいないからです。
そして、このラルゴ楽章で聞くことのできる美しさは、そう言う「様子がいい」とか「姿がいい」と言われるような類の美しさなのです。
この録音をしたとき、デ・ヴィートは確か46才、メニューヒンはフルトヴェングラーを擁護したことでアメリカから追い出された37才、その年でこの「様子の良さ」は見事なものです。
さらに、この二人のヴァイオリンで延々と歌い継がれていく世界に身を浸していると、そこに川の流れのような世界がひろがっていくことに気づかされます。
そこに、日本人である私たちは、とどまることもなく流れ来ては流れ去っていく音の連なりに「無常」の世を感じる事は容易なのですが、デ・ヴィートとメニューヒンはここに何を感じたのでしょうか。
なお、53年のモノラル録音ですが音質は非常に優秀です。この時代のEMIのモノラル録音はクオリティが非常に高いのが、結果としてステレオ録音への移行を躊躇わしたのでしょう。
皮肉なものです。