音楽の骨董いじり

シューマン:交響曲第1番 変ロ長調 「春」作品38

ヨーゼフ・クリップス指揮 ロンドン交響楽団 1957年5月録音

こうやって、とうの昔に死んじまった爺さんや婆さんたちの録音を取り上げてあれこれ書いていると、これはまさに音楽の骨董いじりだなと思ってしまいます。
言うまでもなく骨董と観賞は違います。

骨董はまずは買ってみて、そして自分の身の近くにおいていじり回すことでその良さがしみてきたり、偽物だったことが分かったりします。
それと比べてみれば、観賞というのはもう少し対象から身を置いた姿勢です。

ですから、「観賞」という行為は一度だけ見たり聞いたりしただけなのに、それだけで何らかの価値評価を下して「分かったような」気になる恐れを内包しています。

例えば、「カラヤン美学」であったり、「即物主義」であったり、はたまた「いぶし銀」とか「枯れた芸」等という怪しげな言い回しまで含めれば、この世界はその様な「分かったような」気になる価値評価であふれています。

もちろん、偉そうなことは言えません。
私自身がその様なレッテルで分かったようなつもりの文章を量産してきたことは自覚しています。
そして、それを自覚しながら、そう言う「安直さ」からなかなか脱却できない自分が情けない限りです。

ですから、最近は出来る限り、「骨董いじり」のように聞くことを心がけているのです。

Josef Alois Krips

例えば、このクリップスのシューマンなどは、「なんだか出始めはギクシャクしてるなぁ、ちょっと緊張してるのかな」等と思ってしまうのです。
しかし、そのちょっとギクシャクした導入部が終わって第1主題が出てくると急に威勢がよくなって「よしよし」などと呟くのです。
それは例えてみれば、茶碗を裏返して「よしよし」と呟くように、「よしよし」と頷いてしまうのです。

そして、威勢よく前進しながら、途中で思い切りためを作って見得を切るような場面に出会うと、それは茶碗の中に面白い景色を発見したときのような気にさせてくれるのです。

同じように、第2楽章の何とも言えないくすんだ響きなどは、このシューマン茶碗に相応しい佇まいなので、おもわす「ほほー!」と声を出してしまったりもします。
そしと、DECCAにしては何となく冴えないと思っていた録音も、実はそう言うくすんだ響きを上手くとらえていることの裏返しかもしれないことに気づいたりもするのです。

そういう感じで、最後まで聞き通してみれば、このクリップスの録音を通して、そこはかとなく田舎びた景色のシューマン茶碗の姿が次第に身にしみてくるのです。
それを良いとか悪いとか上下の価値付けをして識別することなどは愚かの限りで、大切なことはそれがどのように己の身にしみてくるかなのです。

そして、それが、演奏史におけるクリップスの位置づけをふまえた上での評価(観賞)とどれほどかけ離れていても、それが身近において身にしみたものであれば、それはそれでいいのだと思うようになってくるのです。

日暮れ、塗遠し。
吾が生既に蹉蛇(さた)たり。
諸縁を放下すべき時なり。

信をも守らじ。
礼儀をも思はじ。

この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、うつつなし、情なしとも思へ。

毀(そし)るとも苦しまじ。
誉むとも聞き入れじ。

兼好先生も言うように、人の一生は「雑事の小節にさへられて、空しく暮れなん」なのです。
他人の言などにはかまってはいられないのです。

と、悟ったようなことを気取っても(^^;、それがなかなかに難しいので困ってしまうのです。
まさに、別の意味において「日暮れ、塗遠し。」なのです。