ラテン的明晰さで再構築したモーツァルト~アルド・チッコリーニ

チッコリーニは1953年と56年二回に分けてそれなりにまとまった数のモーツァルトのピアノソナタを録音しています。

1953年に録音したもの

  1. ピアノソナタ第2番 ヘ長調 K.280/189e(1953年12月8日録音)
  2. ピアノソナタ第9番 ニ長調 K.311/284c(1953年12月8日録音)
  3. ピアノソナタ第11番 イ長調 K.331/300i「トルコ行進曲付き」(1953年12月10日録音)
  4. ピアノソナタ第12番 ヘ長調 K.332/300k(1953年12月10日録音)

1956年に録音したもの

  1. ピアノソナタ第4番 変ホ長調 K.282/189g(1956年2月20日録音)
  2. ピアノソナタ第7番 ハ長調 K.309/284b(1956年2月20日録音)
  3. ピアノソナタ第13番 変ロ長調 K.333/315c(1956年2月21日録音)
  4. ピアノソナタ第15番 ヘ長調 K.533/494(1956年2月21日録音)

ただし、この3年の違いは録音のクオリティ的にはかなり大きくて、53年の録音はやや潤いにかけた響きになっているのが残念です。
ただし、そこでチッコリーニがやろうとしていることは同じです。

Aldo Ciccolini

いわゆる、モーツァルトのピアノソナタというのはこういう風に演奏するものだという「継承」から一度自由になって、それをもう一度ラテン的な明晰さでもって再構築しようとしたものでした。そして、それは50年代という時代における大きな流れとなっていたのです。

その意味では、ほぼ同じ時期(1953年)に録音が為されたギーゼキングの全曲録音と同じライン上にあるようにも聞こえるのですが、聞き比べてみればどこか違うような気がします。

それはあちらはゲルマンの民であり、こちらはラテンの民であるというようなものとも違います。
ギーゼキングの方は、兎に角、まとわりついているものは全て取り払って綺麗にしてみましたと言う感じでしょうか。
それに対して、チッコリーニの方は綺麗にしたものをもう一度自分が考える、もしくは信じるモーツァルトの姿に仕立て直したような気がするのです。

その意味では、これをギーゼキングが聞けば、それもまた一つの歪曲とうつるかもしれません。
しかし、楽譜に忠実な即物主義と言っても、それもまた結局はスコアを根拠とした一つの自己主張に至らなければ、人間の変わりにプログラミングされた機械にピアノを演奏させればすむと言うことになってしまいます。
その意味では、徹底的に洗い流して硬質なクリスタルのような響きでモーツァルトを演奏してみせたギーゼキングもまた、ギーゼキング的に歪曲されているわけです。

巷間、チッコリーニが最晩年に録音したモーツァルトが高く評価されているようです。
曰く、モーツァルトは無垢な子供か枯れた年寄りでないと表現できないと言うことらしいです。
まあ、そんな阿呆なことはないのですが(^^;、それでもその様な物言いが出てくるのは、スコアに書かれた音符を正確に音に変換するだけではこぼれ落ちてしまうものがあることを認めていることは間違いありません。

こういう演奏こそは、スコアを睨みながら聞いてみると面白いのかもしれません。

モーツァルトのスコアというのは驚くほどなにも書かれていません。
それは、書かなくても分かるだろうというモーツァルトの思いがあるからであって、演奏する側はその様なモーツァルトの思いを正確に受け取って形あるモノしなければいけないのです。
申し訳ないですが、なにも分からない無垢な子供に演奏できるような代物ではないのです。

そして、そうやってスコアを睨みながらチッコリーニの演奏を聴けば、極めて直線的に、かつ明晰に弾ききっているように見えながら、その実はかなり細かい表情付けを与えていることに気づくはずです。
その表情付けが歪曲なのか、それともモーツァルトの意に添った「趣味のいい演奏」なのかは、聞き手の判断と見識が求められるのでしょう。

少なくとも、晩年のよたよたした演奏よりはこちらを取りたいという気にはなります。