スタインバーグとミュンシュ

この二つの録音は、シューベルトの交響曲2番という、一般的には習作の域を出ないと思われているマイナー作品を取り上げているのですが、あれこれと考えさせてくれる録音でもあります。

シューベルト:交響曲第2番 変ロ長調 D.125

  1. ウィリアム・スタインバーグ指揮 ピッツバーグ交響楽団 1952年2月9日録音
  2. シャルル・ミュンシュ指揮 ボストン交響楽団 1960年3月7日録音

ミュンシュは9番「グレート」に対したときと同じ意気込みと方法論を持って、シューベルトの習作とも言うべき交響曲に対して臨んでいるからです。

まさに「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」なのです。
言うまでもなく2番の交響曲が「鶏」であり、「グレート」を捌くのに用いた方法論が「牛刀」というわけです。

ミュンシュは楔を打ち込むような縦割りのリズムで「グレート」を構築していたのですが、その強烈さはベートーベンの交響曲でも滅多に聴けないほどの凄みがありました。
そして、それとほとんど同じ事をこの第2番の交響曲にも適用しているのです。
これはもう、いくら何でもやりすぎだろうと思うのですが、しかし、聞き進んでいくうちに不思議な感情がわき起こってくるのです。
それは、この一般的には習作の域を出ないと言われる交響曲は、世間一般で言われるような「ただの鶏」なんだろうかという思いです。

考えてみれば、ミュンシュほどの男が、ただの酔狂でこういう作品を取り上げるとも思われません。
ミュンシュという人は「コンプリート」という考えは全くなかったようで、例えばブラームスでは1,2,4番は録音していても、私の知る限りでは3番は録音をしていません。普通はここまでくればお義理でも録音をして「全集」にする指揮者が多いのです。
ところが、ミュンシュという人は気の進まない作品は録音もしなければ演奏もしないというスタンスを取っていたように見えるのです。
そんな男が、何故かシューベルトの交響曲の中では全くの習作と思われている第2番を何度も取り上げて、さらには2回も録音しているのです。

と言うことになれば、ミュンシュにしてみれば、この交響曲はただの習作ではなくて、グレートに適用したような方法論がそのまま適用しうる交響曲だと考えていたことになります。
そして、そう言うバイアスのかかった(^^:耳で聞き直してみれば、なるほど、こいつはもしかしたらただの「鶏」ではないかもしれないと思ってくるから不思議です。

少なくとも、そう思わせる力がこの録音にはあります。
それだけは間違いありません。

そこで、もう一つ思い出したのはスタインバーグの録音です。
モノラル録音(1952年録音)なのですが、極めて優秀な録音なので、指揮者が何をしているのかはこのミュンシュの録音よりも明瞭に聞き取れるかもしれません。
そして、このスタインバーグもまた、この交響曲をただの習作としてではなく、古典派の音楽としての資格を有した交響曲として対峙している事がよく分かります。
ただし、聞き比べてみれば、その対峙の仕方は全く違います。

なるほど、こうして聞き比べてみれば、ミュンシュという指揮者はうまいものを食わせるというので有名な食堂の頑固親父みたいな感じです。
「これ一度食って見ろ、うまいから!」って感じでどんとお皿を出してくれる感じで、言われるままに食ってみれば確かにうまいのです。

それに対して、スタインバーグの方は、これが世間で言われるような食べ物ではなくて、結構独創性に富んだ美味しいものだと言うことを懇切丁寧に教えてくれます。

  • 第1楽章の主題はベートーベンの「プロメテウスの創造物」の旋律を思い出せますし、第2主題はモーツァルト屋さんの味わいに似てます。
  • 第2楽章の変奏曲形式も主題の輪郭は崩さずに音価を小さくしていく辺りはまさにハイドン屋さんの味です。
  • でも、第4変奏が突然短調になる辺りはベートーベン屋さんの味付けを思い出させます。
  • でも、第3楽章のメヌエットが短調というのはこの店だけでしょう。第4楽章の味わいも他では食べられませんよ。
  • そんなわけで、この店のお品は他の店の味を参考にしただけのものではないんですよ。

・・・みたいなことを懇切丁寧教えてくれる感じです。
お皿が出てくると、そのお皿について細々説明してくれるあの感じです。

まあ、それはそれで有り難い話ではあります。

ただ、何も言わずに、この交響曲とベートーベンのプロメテウスの創造物を盛り合わせてどんと食ってみろというミュンシュ屋の親父も凄いのです。