深々と沈潜していくようなクナッパーツブッシュの音楽を必要とする人は多いのでしょう

クナッパーツブッシュの音楽は嫌いだという人は少なくありません。
その論拠となるのは、楽譜に書かれているテンポ指示を無視し、自分の都合のいいように勝手に演奏してしまうからであり、それはすでに解釈の領域を超えた恣意的な改変だというものです。

言わんとしていることはよく分かります。
例えば、クナッパーツブッシュの数ある録音のなかでも優れものの一つと言われる「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」などはそう言う「恣意性」を否定できない音楽の典型です。
さらに言えば、ブルックナー演奏においても平気で改竄版を使用するのも、そう言うクナッパーツブッシュの傾向を如実にあらわしたものと言えるでしょう。

作曲家の意志を何よりも尊重し、原典に対しては忠実に演奏することが何よりも重要視される今の時代にあっては否定しようのないスタンスです。
ただし、私などは、この「原典」を尊重することが本当に作曲家の思いを大切にすることにつながるのだろうかという疑問は常につきまとっています。

それには概ね二つの理由があります。
一つめは、いわゆる「原典」であるスコアというものがきわめて不完全なものだと言うことです。

例えば、何も書いていないからそのままインテンポで演奏すればいいわけではないという場面はいくつでも指摘できます。
さらに言えば、「Allegro」と指定された時に、その「Allegro」をどの程度の速さで演奏すればいいのかは「解釈」が求められます。ましてや、テンポ設定が「Allegro」と書かれている以上は新たな指示があるまでそのままインテンポで演奏すればよいと言うわけでないことも、これまた明らかです。

さらに言えば、モーツァルトの時代などであれば、スコアに書かれているのは骨子だけであり、演奏される場に従って適切に装飾音を追加することを前提にしているものも少なくないのです。
ですから、不十分極まるスコアだけを頼りに、そこに「書かれていることだけ」を音に変換するだけでは作曲家の思いにたどり着けないこともは明らかなのです。

原典尊重の鬼のように言われるライナーやセルにしたって、随分と細かくテンポを動かして繊細な表情付けを行っているのはよく知られていることです。
もっとも、クナッパーツブッシュを否定する人たちもその様なことは「解釈」の範疇であり否定はしないでしょう。
要はクナッパーツブッシュの場合はその様な「解釈」の域を超えているがゆえに許せないと思われるのでしょう。

ですから、この点については認識は共有できるのではないかと思います。

ただし、次の点についてはおそらく意見は分かれるでしょう。

チリの国民的詩人パブロ・ネルーダと郵便配達夫マリオの交流を描いた「イル・ポスティーノ」と言う映画がありました。

その映画のなかでとても印象的な場面がありました。
密かに思いを寄せる女性に自分の思いを伝える文才を持たないマリオは、ネルーダの詩を引用してラブレターを送ります。
それを知ったネルーダは「盗作を君に許したつもりはないのだが」と言うのですが、それに対してマリオは「詩はそれを必要とする人のものだ」と反論するのです。

このマリオの反論は、芸術的創造というものは、ひとたび作者のもとを離れればそれは必要とする人の所有物になるのであって、それを必要とする人の幅が広がればその思いにあわせて時には「解釈」の域を超えた捉え方をされることにもつながることを主張します。
しかし、それを許せるかどうかと言うのは、それぞれのスタンスによって異なってくることは仕方のないことでしょう。

作り手にしてみれば冗談じゃないという思いはあって当然ですし、受け手にしてみれば、その「恣意的改変」が自分の思いに沿うものであれば喜んで受け容れるはずです。
しかし、一つだけ確かなことは、芸術的創造というものはそれを必要とする人がいなければ、早晩忘れ去られて歴史の屑籠に放り込まれてしまうと言うことです。
そして、恣意的と思えるほどの改変であってもそれが多くの人に受容されるというのは、作品そのもにそれだけの度量があると言うことであり、さらに言えばその「恣意的改変」が多くの人が「必要とするもの」を代弁していると言うことです。

受け手は常に貪欲であると同時に気楽なのです。
おそらく、「ヴォータンの告別と魔の炎の音楽」の深々と沈潜していくようなクナッパーツブッシュの音楽は、ジョージ・ロンドンの歌唱に不満を感じながらも、それを必要とする人が多いのです。

とは言え、作り手の側に身を置く人にしてみれば、それでも容認できないという思いはあっても仕方のないことでしょう。少なくとも、気楽さの表れとしての恣意的改変に関しては許せないというのは十分に理解できます。
しかし、クナッパーツブッシュの音楽にはその様な気楽さからは最も遠い場所にあることもまた事実なのです。