職人の良心~カイルベルト

カイルベルトという指揮者はずいぶん古い時代の人のように感じるのですが、調べてみると生まれは1908年で没年は1968年ですから、セルなんかよりもかなり若い人なので驚いてしまいました。同じ年に生まれた有名な指揮者と言えば、真っ先に思い浮かぶのはカラヤンなのですが、感覚的には二世代も三世代も前の音楽家のように感じてしまいます。

しかし、そう言う「誤解」を生んでしまうのは、彼の音楽スタイルにも原因があります。
おそらく、彼ほど「職人」という言葉がぴったりくる指揮者はそうそういるものではありません。オペラハウスのコレペティトゥール(歌手などに音楽稽古をつけるピアニスト)からの叩き上げで、最後はドレスデンやバイエルンの歌劇場のシェフにまでのぼりつめた人でした。
Keilberth
それだけに、1968年にバイエルンの歌劇場で「トリスタンとイゾルデ」の上演中に心臓発作を起こしてなくなるという最期は、彼としてみれば「本望」だったのかもしれません。
とはいえ、わずか60歳という若すぎる死だったことにあらためて驚かされます。

カイルベルトの演奏は、とにかく聞き手に「媚びる」ということが全くありません。
分かりやすく聞かせようとか、美しく聞かせようというような「邪心」は全くない指揮者で、その点は同年生まれのカラヤンなどとは真逆の存在でした。結果として、人気が出るわけもなく、一般受けのしない指揮者としての日々が続き、おまけに「いよいよこれから」という時期に早すぎる死を迎えたために、「渋い音楽家」という評価が定着したままになってしまいました。

彼が作り出す響きは、いわゆるドイツオケの伝統ともいうべき重厚なものですが、オケへの指示が的確で無駄がないためか、内部の見通しは悪くありません。
その意味では、当時のザッハリヒカイトの流れの中にあるのでしょうが、彼の音楽はどうもそう言う「主義」とは縁遠いところにあるような気がします。そうではなくて、彼の音楽が持っているある種の明晰さはそう言う「主義」に起因するものではなくて、あるべきものはあるべきままの姿でキッチリ仕上げていくという、職人としての良心によっているような気がするのです。

例えば、カイルベルトの職人技によるエロイカの演奏が残されています。

ベートーベン:交響曲第3番 変ホ長調 「エロイカ(英雄)」 作品55

聞いていて一番印象に残るのは、何とも言えずまろやかで伸びやかなホルンの響きでしょう。こういう響きはなかなか聞けないですね。
オケ全体の響きも「自然素材の風合い」を感じさせてくれます。

こういう響きを聞かされると、今と昔ではオケの鳴らし方が根本的に変わったことを教えられます。

カイルベルトのやり方は、おそらくは主たる旋律のラインをくっきりと描き出した上で、その他の声部のバランスを取るというやり方をしているのでしょう。
基本はメロディラインが優先です。
一番印象に残ったホルンの伸びやかな響きは、そう言うやり方の「功徳」でしょう。

それに対して、昨今のオケと指揮者は各声部のバランスを完璧に取った上で均等に鳴らすという神業のようなことを平然とやってのけます。結果として、オケの響きは「自然素材の風合い」ではなくて、「クリスタルな透明感」が支配的となります。
そして、そう言う響きはこの上もなく美しく、蠱惑的です。
しかし、人間というものは贅沢なもので、そう言う「極上の響き」ばかり聞いていると、その「美しさ」にどこか「人工的」な匂いが感じられてきて、倦んでしまっている自分に気づかされるときがあります。
そんな時に、カイルベルトとドイツの田舎オケの組み合わせでこういう風合いの響きを聞かせてくれると、何とも言えずココロが和みます。

おそらく、今となってはこういう風にオケを鳴らす指揮者はいないでしょうし、それを受け入れるオケもいないだろうと思います。
やれば、間違いなく指揮者は馬鹿にされるでしょう。

でも、朝比奈と大フィルってこんな雰囲気の鳴らし方をしていたような記憶があります。
私がせっせと大フィルの定期に通っていたのは80年代なのですが、その頃は御大も元気はつらつで、ブルックナー以外は何を振っても浪花節みたいに響いたものです。そして、当時は秋山和慶氏もよく指揮台に立っていたのですが、同じオケとは信じがたいほどに端正な響きがしたものです。
今から考えると、二人の間にはオケをどのように鳴らすのかという根本で大きな違いがあったのでしょう。
カイルベルトの録音をまとめて聞いてるうちに、そんな愚にもつかない昔のことを思い出してしまいました。

ただし、主旋律優先と言っても全体の構造はしっかりとしています。
たとえば、彼が得意としていたブルックナーのような音楽になると、実に一つずつキッチリ仕上げているという雰囲気が伝わってきます。

ブルックナー:交響曲第9番 ニ短調

おかげで、音楽はブルックナーらしいゴツゴツとしたものになって、聞き手にとっては聞きやすい代物ではなくなるのですが、聞き終わると「なるほどこれがブルックナーだ」と納得させてくれる演奏になっています。
おまけに、このザラッとした生成の風合いを思わせるようなオケの響きは、まさにブルックナーに相応しいものです。
彼のブルックナーはクナッパーツブッシュのような「雄大な音楽」にはなりませんが、まさにドイツの人々が「私たちの音楽」として受け入れてきたブルックナーとはどういうものかを教えてくれる演奏ではあります。

しかし、エロイカだとそこまで無骨にはなりません。
そして、この「物わかりの良さ」がいささかもの足りず、出来れば、このブルックナーの9番のようなごっついエロイカを聞かせてほしかったなとも思います。

ただし、そのあたりがカイルベルトという人の職人としての限界だったのかもしれません。
彼はあくまでも職人であり、職人の良心は作品に沿うことであり、そこに己の強烈な個性を刻み込むというのは戒めるべき事だったのでしょう。
もちろん、「早すぎる死」がなければ、この「謙虚」さを振り切っていたのかもしれませんが、歴史に「if」は無いだけに、詮無きことです。