歴史的録音の今日的意義~歴史的録音の演奏

昔は本当に良かったのか?

2005年2月8日追加 2015年3月16日一部加筆訂正

一般的に歴史的録音というのは「音は貧弱だけど演奏は素晴らしい」ということでその価値が語られてきました。音質の問題に関してはあれこれ書いてきましたので、次は「素晴らしい」と言われる演奏について考えていこうかと思います。
本当に昔はよかったのか?
まず始めに確認しておかなければいけないことがあります。
それは、「昔の演奏は素晴らしい」という人はその裏側に「今の演奏はつまらない」という思いを内包していることが多いということです。しかし、このような物言いというのは、ともすれば「昔はよかった」という年寄りの愚痴に陥る危険性も内包しています。ですから、昔の演奏を論じるときにはそういう年寄りの愚痴に陥らないようにしっかりと心しておかなければいけません。
Portrait of Eugene Ysaye
もう少し具体的に書いてみましょう。
例えば、20世紀の初め頃(たしか30年代?)にイザイというヴァイオリニストが亡くなりました。時の評論家は彼の死を悼んで「これで真のヴァイオリニストはこの世から消えてしまった」と嘆いたそうです。そして返す刀で「これからはハイフェッツやエネスコやティボーのような小人輩どもが跋扈するしかないと思えば情けない限りだ」と宣ったそうです。

また例えば、五味康祐なる人物がいます。
今の若い人には五味康祐と言ってもピンとこないでしょうが、存命中は剣豪小説の作家として有名な方でした。しかし、私にとっては求道者と言っていいほどに自分の全生涯をかけてクラシック音楽とオーディオを追求した人物として深く心に残っています。ですから、一冊も読んだことはありませんが、本職の剣豪小説以外にもオーディオやクラシック音楽についてたくさんのエッセイを残しています。

その中の、例えば、「ベートーベンと蓄音機」などと言う一冊を読んでみますと、作曲家や作品そのものに関しては自分の耳と感性を信じて素晴らしいオマージュを語っています。ところが、演奏に関しての文章となると、そういうしなやかな感性がとたんに影をひそめてしまい、「昔は良かった」の一点張りになってしまいます。フルヴェン・ワルター・メンゲルベルグ・トスカニーニなどへのオマージュが熱く語られ、それはそれで面白いのですが、それと比べて今の演奏家はダメになっており、これから先も期待はもてないと言う「嘆き」というか「ボヤキ」というか、そう言う言葉が繰り返し語られています。

私たちはイザイが亡くなった30年代以降の世界を知っていますし、フルトヴェングラーやワルターが亡くなったあとの世界も知っています。ですから、「小人輩が跋扈」し、「なんの望みもない」と言われた「そのあとの時代」においても、数々の素晴らしい演奏や録音が残されたことを知っています。
私たちが歴史的録音の演奏について語るときに、このような物言いになることを、つまり年寄りの愚痴になることを十分に注意しなければいけないのです。

過去の演奏には何の興味も関心もない??

さて、昔はよかったという年寄りの愚痴の対極としてこのような意見もあります。
「演奏はそれぞれの時代の空気を吸って生まれてくるものである。だから、過去の演奏よりは現在の演奏の方が同じ空気を吸っている中から生まれてくる分、よりリアリティをもって響いてくる。だから、そんな過去の演奏にはなんの興味もない。」

不思議なことにこういう意見は日本では極めて稀です。稀ではありますが、時々このような方と出会うことがあります。そして、一見すればとてももっともらしい物言いなのですが、ただ、このような物言いの「演奏」という部分を「作品」とかえてみればどうなるのでしょうか?

「作品はそれぞれの時代の空気を吸って生まれてくるものである。だから、過去の作品よりは現在の作品の方が同じ空気を吸っている中から生まれてくる分、よりリアリティをもって響いてくる。」

しかし、それに続けて、「だから、そんな過去の作品にはなんの興味もない。」と言いきれる人は滅多にいないでしょう。
過去の空気を吸って生み出された「演奏」は認められないが、過去の空気を吸って生み出された「作品」ならば許容できるというのでは、あまりにも都合のよすぎる理屈だと言わざるを得ません。もっとも、現在の演奏による現在の作品しか聞かないというのなら首尾一貫しているのでそれはそれで理屈としては通ります。
しかし、私のような人間とは人生のいかなる地点においても交差することのない人たちだと思います。

個々の演奏というものは海の中に突き立てられた杭のようなものだといえます。

そして、その突き刺さった海面は時代が立つにつれて潮位が上がっていきます。やがて、背の低い杭は水中に没して姿を消していきます。
今という波打ち際からその杭を眺めてみれば、目の前の浅瀬には無数の杭が乱立しています。そして沖に行けばいくほど杭の数は減っていきます。
しかし、はるか沖合においてもハッキリと存在を確認ができるような杭が何本も見えます。

その杭は波打ち際から見れば、手の届かない、そしてある意味では存在のリアリティも感じられないような「抽象的な存在」に見えるかもしれません。しかし、同時代性に欠ける、いわば「抽象的な存在」となっていたとしても、波打ち際に佇む私たちはその沖合の杭を無視することができるのでしょうか?

波打ち際に立ち並ぶ無数の杭も、ほとんどが遠からず海中に没していくでしょう。そのうちのいくつが50年をこえる時の流れに耐えてその杭の先端を誇示していくことができるでしょうか。何とかアカデミーという賞をもらって天まで持ち上げられたCDが、数年後には中古レコード屋で二束三文で売られているのを見るたびに、私はため息を禁じ得ません。

歴史的録音の存在意義はどこにあるのか?

批評というのは比較することによってまずは成り立ちます。
もちろん「あれ」と「これ」を比べて論じるだけが批評ではありませんが、しかし、とにかくいくつかの対象を俎上にのせて論じなければ話は始まりません。
この世の中に音楽作品というものが「一つ」しか存在しないと仮定すれば、そこには「評論」という営みは成り立ちません。評論どころか、好きか嫌いかの判断もできないはずです。

では、音楽作品が二つになればどうでしょうか?
おそらくそれでもそこには評論というものは存在し得ないはずです。そこに存在するのは「評論」ではなくて、二つを比べてどちらが「好きか」という感情的なレベルの話にとどまるだけです。
おそらく、評論というのは、最低三つの作品が存在して、その三つを比較する中でお互いの関連性を語ることができるようになって初めて成立するのでしょう。そして、そのような関連性が認識されて初めて「価値観」というものが生み出されるのだと思います。そして、評論という営みは、この「価値観」のせめぎ合いの中で「価値」を確定していく営みだと言えます。

それぞれの価値観によってそれぞれの作品の優劣を論じることによって評論という営みはスタートしますが、やがてそれらは厳しいせめぎ合いの中で一定の結論へと収斂していくものです。その収斂に向けた営みこそが評論の名に値しますし、そらに言えば、そのような価値観に基づいて、今後生み出されるべき作品の姿を明らかにすることまでをも含めて評論の守備範囲といえるでしょう。

これはあまりにも現実を単純化しすぎているでしょう。しかし、本質的な部分はそれほどはずしてはいない単純化だと思います。

評論という営みは決して好き嫌いの表明ではないはずです。
ましてやレコード会社の広報活動と同義語であるはずがありません。

そうではなくて、歴史的に積み重ねられてきた芸術的営みを、そのつながりと関連性において位置づけを明確にすることが最低限の責務として求められるのです。
歴史の波打ち際にたっている私たちがなすべきことは、水平線の彼方からこの波打ち際まで、水中に没することなくその杭の先端を表している演奏を何本もの線でつないでみることです。そして、そのつないだ線から見えてくるものを語ることこそが大切なのです。

そして、ここからが一番大切なことなのですが、そうすることによって、今、目の前に乱立している「現在の演奏」の中から真に意味のあるものを、好き嫌いという感覚的な話としてではなく、それなりの確固とした理由を明示して選び取ることこそが大切なのです。派手な広報活動や提灯持ちの評論に惑わされることなく、本当に真摯な姿勢で音楽活動を行っている人々を見出してしっかりと称揚することが大切なのです。
それこそが、評論活動に課せられたもっとも大切な仕事だといえます。

過去の演奏を褒めそやすことは容易いことです。
しかし、重要なのは過去ではなくて常に現在です。昔はよかったといって、過去の中に浸り込んで現在と未来に向かって心を閉じてしまうのは愚かなことです。同じように、いかに現在が大切だからといって、過去を「あほの画廊」として切り捨てるのも大きな誤りです。
過去は常に現在を正確に映し出す鏡です。
言葉をかえれば、私たちは過去という鏡なくして現在を正しくうつしだすことはできないのです。

音楽を聞くという行為がその人にとってただの慰みであったり気晴らしにしかすぎないのなら、その人がどのようなスタンスで音楽と向き合おうとそれはどうでもいいことです。
しかし、かつて「あなたにとってクラシック音楽とは何ですか?」というアンケートに約1/3の人が「人生そのもの!」と答えてくれました。

私にとっても、クラシック音楽は人生そのものです。ならば、己の音楽に対する関わり方を時には根性をすえて見つめ直してみることも重要です。
そう思えば、聞かなければならない過去の演奏は未だに山ほど存在しますし、目配せしなければいけない現在の演奏も限りがありません。
狭い自分の殻に閉じこもっている暇はないのです。