2009年3月8日 追加 2015年3月17日一部加筆訂正
どうやらバッハの無伴奏というのは「上手」に演奏してはいけないようです。
シゲティ然り、エネスコ然りです。
そして、その事を指摘して批判めいたようなことを口にすると、あちこちから雨あられと矢玉が降りそそいできます。
例えば・・・「シゲティの演奏を下flac.aki.gs、アマチュアレベルとか言っている御仁は、残念ながら音楽とは無縁の輩なのだ。 」・・・音楽を聞く資格もないと叱られれば誰もが口をつぐんでしまいます。
困ったものです。
しかし、最近は少しばかり風向きが変わってきたようで、シゲテイ神話に一言物申す方々が出てきたようです。
そうなると、「へたくそ、プロとしてやってこれたのは不思議なくらいだといっていいかもしれない。」とか「雑音のような音をずっと聴き続けなければいけないなんて、音楽を苦行と取り違えているのではないだろうか? 」などと言う物言いも聞こえてきて、これまた困ったものだと思ってしまいます。
真の芸術家というのは「呪われた存在」だとつくづく思うようになってきました。
何故なら、彼らは己の命を削って死ぬまで歌い続けることを宿命づけられた存在だからです。
そして、彼らが呪われているのは、その様な「苦行」とも言えるような人生に訣別しようとしても、おそらく彼らの内からわき上がるような「思い」が彼らに「歌う」事を止めさせないからです。
「歌う」という行為が、自らの喜びや楽しみのためならいつでも止められるでしょう。ましてや、地位や名誉やお金などという、己の外面を飾り立てるためのアクセサリとして「歌う」のならばそれこそいつでも止めることが出来ます。
だとするならば、いったい何が彼らを「歌う」事に駆り立てるのでしょうか?
疑いないのは、「歌う」事を宿命づけられた芸術家にとって「歌う」という行為は彼らの個人的な営為ではないと言うことです。
もちろん始めは、彼らもまた己の楽しみのために楽器を手に取り、演奏を始めたのでしょう。そして、多くの人はそのような楽しみのために楽器を演奏し続けるのでしょう。
しかし、そんな風に楽器の演奏を始めた人々の中から、ごく限られた一部の人が「何もの」かによって選び取られるのです。そして、ひとたび選び取られてしまえば、その選び取った「何もの」かによって彼らに「歌う」事を強いられるようになるのです。
では、その彼らを選び取った「何もの」かとは何ものかと言えば、それは「時代精神」とも言うべきもなのでしょう。
もっと分かりやすく具体的に言えば、同じ時代を生きる人々の「喜び」や「哀しみ」、「怒り」や「憎しみ」、そして「嫉み」、「妬み」、さらには「希望」や「絶望」、その他ありとあらゆる「思い」が彼らの中に流れ込み、その時代の渦みたいなものが「歌う」事を強いるのです。
そう言う意味では、彼らは巫女もしくは神官のような存在なのかもしれません。
そう考えてみれば、このシゲティの演奏には間違いなく二つの大戦を経験した20世紀を生きた人々のありとあらゆる感情が流れ込んでいます。
そして、その様な時代の声にシンパシーを感じる人にとってはこの演奏は限りなく偉大なものと映ずるはずです。
そして、そんなものは遠い時代の過去のものとしか感じられない人にとってはまさに時代錯誤の昔語りにしか聞こえないはずです。
その意味で、いつまでもシゲティを持ち上げるのはいかがなものかとは思います。
しかし、この演奏は二つの大戦を経験した20世紀と言う時代の「声」であったことも事実であり、その事には深い敬意を感じざるを得ません。
おそらく、シゲティにとってバッハとはこのように厳しい音楽としてしか「歌う」事が出来なかったのです。その立ち位置に思いを致せば、この厳しい音楽に向き合うことは決して「苦行」ではないはずです。
そして、悲しいことに、現在の音楽家の多くは、を軽やかなファッションとして音楽を演奏してはくれても、呪われた音楽の凄味に立ちすくむような衝撃は与えてくれることは希有なのです。
もちろん、音楽にその様な「重たいもの」を求めない聞き手もその責任の半分は分担すべきなのですが。
パルティータ第2番ニ短調 BWV1004より「シャコンヌ」
Vn.シゲティ 1955年10月18&20日録音
シャコンヌとは、「上声は変わっていくのに、バスだけは同じ楽句に固執し執拗に反復するものである」と説明されています。上声部がどんなに変奏を展開しても、低声部で執拗に繰り返される主題が音楽全体の雰囲気を規定します。
しかし、その低声部での主題を聞き手が意識することはほとんどありません。冒頭にその主題が提示されますが、その後は展開される変奏の和声の最低音として姿をくらましてしまうからです。
ところが、姿をくらましても、それが和声進行のパターンを根底で支配するのですから作品全体に与える影響力は絶大であり絶対的です。
聞き手には移り変わっていく上声部のメロディラインしか意識には残らないでしょうが、執拗に繰り返される低声部の主題が音楽の支配権を握っています。
ですから、聞き手にはこの低声部の主題がそれとは明確に意識できない代物であっても、演奏する側はそのことを明確に意識して演奏する必要があります。
つまりは、スコアに書いてある音符をそれなりに音にするだけでは音楽にはならないのです。
そのことは、何もこの作品に限ったことではありませんが、シャコンヌはとりわけ演奏者サイドにその手の難しさを要求するようです。