歴史的録音は本当に音が貧しいのか?
2005年2月6日追加2015年3月15日一部加筆訂正
歴史的録音は音質は貧しいが、個性的な演奏はその様な貧しい音質をおぎなっておつりが来るほどの魅力がある・・・などという言い方がよくされます。歴史的録音=音質が貧しいという公式は一般的にはなんの疑いもなく受け入れられています。
しかし、この数年集中的に歴史的録音を聞き続けてくるとこの問題はそれほど単純ではないことに気づかされました。
歴史的録音といえばノイズと歪みはつきものですし、周波数特性をみてみればお粗末なまでにナローレンジです。現在の最新録音を聞き慣れた耳には我慢できない代物であることは明らかです。実際、そこそこのオーディオマニアでありましたから、「何を好きこのんでそんなお粗末な音質で音楽を聞かなくっちゃいけないんだ!」ということで、歴史的録音などにはまったく見向きもしないで20年以上を過ごしてきました。
それが、サイトで音楽を流すための手段として歴史的録音に着目し、半ば仕方無しにそういうプアな音質で音楽を聴き始めたのが3年ほど前のことでした。
誤解のないように申し添えておきますが、私は歴史的録音に深い興味があってこのようなサイトをはじめたのではありません。
ただ、サイト上で音楽を実際に聴けるようにするためのやむを得ない手段として(著作権に関わるあれこれの問題をクリアするために)歴史的録音との付き合いが始まったのです。
そういう私に強烈なインパクトを与えてくれたのが、45年1月にムジークフェラインザールで録音されたフルトヴェングラーによるブラームスの2番の演奏でした。言葉をかえれば、この歴史の証人とも言うべき演奏を知らないで20年近くもクラシック音楽ファンをやっていたほどに歴史的録音に関して疎かったと言うことです。
これは実にもってすさまじい演奏で、聞き終わった後に数分間ほど身動きもできなかったほどです。そして、音質的には貧しいものではあっても、その貧しさは音楽を楽しむことの妨げになるほどにはプアではないことにも気づかされました。
ある一つのきっかけで、今まで己の視界を閉ざしていた障壁が打ち破られ、新しい世界を切り開いてくれると言うことはよくあることです。この時のフルヴェン体験はそのようなすばらしい体験の一つであり歴的録音の大海へと放り出してくれました。
そして、その気になって目配せをしてみれば実に魅力的な歴的録音に満ちあふれていることに気づかされました。
それから3年、この大海を泳ぎ続けて今日に至っています。
冷たいといわれたCDとは対極にあるような音質
そうやって、次から次へと歴史的録音を聞き続けていくうちに、時々ハッとするほど魅力的な音質の録音に出会うという体験が重なりました。それは弦楽器や人間の声を録ったものに多かったのですが、オーケストラ録音の中にも何とも言えず魅力的なものがありました。
それは冷たいと言われたCDの音質とは対極にあるような暖かくふくよかな音質でした。確かにレンジはナローですがそんなことはほとんど気にならないのが不思議でした。
そういえばCDがこの世に登場したときは音が冷たいといってずいぶん批判されたものです。
しかし、オーディオメーカーの技術者たちはそういう声を「原始人の戯言」と切って捨ててしまいました。
彼らにしてみれば、LPとCDを比べてみれば周波数特性は桁違いにCDの方がすぐれているのですから、冷たいだの暖かいだのという訳の分からない感覚的表現でこのすぐれた技術的進歩を貶すような批判は「原始人の遠吠え」に聞こえたことでしょう。
そこで、彼らは再生機器がCDのもっているすぐれた物理特性に対応しきれていないからそのような戯言が聞かれるのだと言い張り、デジタル対応のアンプやスピーカーを次々と投入し始めました。このすぐれたデジタル対応の機器でCDを再生すればそういう戯言や遠吠えは消えてなくなるだろうと言うわけです。
ところが驚くなかれ、そういうすぐれた機器でCDを再生すると、以前よりもさらにひどい音で再生されるではないですか!!
人の心を魅了するコンテンツが数少ないときはそれでもよかったのでしょう。しかし、オーディオ以外にも魅力的なコンテンツが世にあふれ出してきたこの時代において、その様な情けない世界しか提供できないオーディオの世界に誰が魅力を感じるでしょう。結果として、この世界から数多くの心ある人々が退場していったのです。
CDの黎明期に犯した誤り
今私は歴史的録音の世界にどっぷりとつかってみて、このCDの黎明期に犯した誤りの本質がはじめて納得できました。
確かにCDは広い帯域にわたってフラットな特性を持っています。それはLPなどのアナログな世界の及ぶところではありません。ですから、録音に携わる人も、オーディオ機器の製作に携わる人も、その両端に引き延ばされた帯域をいかにスムーズに再生するか、または録音におさめるかに血眼になりました。
この時代のオーディショップに行くとどれもこれもが同じ顔をした3ウェイのスピーカーばかりが並んでいました。ハイエンドモデルでは4ウェイどころか5ウェイなんて言うスピーカーも並んでいました。つまりは、低域と高域をどれほどフラットに再生するかに全力を投入していたのです。
そのダイアトーンのDS1000という3ウェイのスピーカーを購入して使っていたのですが、最後まで好きになれませんでした。20代で無理して買った一本10万円もするスピーカーが好きになれなかったというのは実に不幸なことですが、要はその頃はそういうスピーカーしか店頭に並んでいなかったのです。
不幸な時代でした。
では、何が間違っていたのか?
分かってみれば簡単な話です。
例えば低域方向へ特性を伸ばしていって60ヘルツあたりまでフラットに再生できたとして、果たしてそういう低音をならすような楽器が存在するのでしょうか?パイプオルガンの最低音ならそのあたりまで出るのでしょうが、それは音と言うよりは振動として関知される範疇に属します。
逆に高域方向に18000ヘルツあたりまでフラットに伸ばしたとして、そんな音はほとんどの人にとって音としては関知される範囲を超えています。
つまり、音楽として重要な帯域はそういうところにあるのではなくて、本来ならばシングルコーンでも再生が可能な2~300ヘルツから10000ヘルツあたりまでの中域なのです。そういう音楽的に一番おいしい部分をおいしいままにすくい取ってくるのが録音技師にとっては一番大切なことであり、オーディオ機器にとってはそういう帯域をしっかりと再生させることこそが最も重要なのです。
そういう音楽にとって一番肝心な部分をほったらかしにして、倍音でしか意味のないような帯域にばかりこだわっていたのでは肝心の音楽がおいしく再生されるはずはありません。
ところが、CDの黎明期にあってはそのフラット特性に目を奪われて、肝心の中音域の扱いが疎かになってしまったのです。デジタル対応という美名のもとに大量に販売された3ウェイのスピーカーなどという代物は、限られたコストの中でウーファーやツイーターにもお金をつぎ込まざるを得ないために肝心のスコーカーがお粗末になるという本末転倒の出来損ないの品物だったのです。
それに対して、歴史的録音というのはその技術的制約からどうあがいても低域方向にも高域方向にもフラットに再生することなどは不可能でした。ですから、最初から潔くそういうことは諦めてひたすら中音域の音楽的に一番おいしい部分をすくい取ろうと努力していました。
ですから、保存状態のいいSP盤やモノラルのLPを、適切なシステムで再生すると、かまぼこ型の周波数特性でありながら音楽的には実に魅力的に再生されるのです。
話を料理屋にたとえてみた方が分かりやすいかもしれません。
お刺身を注文して、その「つま」だけが豪華で肝心のお刺身が食えたものではないというお店に足を運びたくなるでしょうか?
お肉料理を注文して、付け合わせの野菜ばかりが豪華なのに肝心のお肉が食えたものではないというのではどうでしょうか。
歴史的録音では、刺身のつまやお肉の付け合わせでは贅沢できないことは最初から分かっているので、肝心のお刺身やお肉をできる限りおいしく仕上げようと努力しているのです。
いや、こういう言い方でもあまりにも抽象的にすぎるかもしれません。
例えば、80年近くも前のこの録音を聞いてみて下さい。カザルスのチェロがこんなにも生々しく録音されていたことに驚きを感じないでしょうか?
ブラームス:チェロソナタ第2番 ヘ長調 作品99
Vc:カザルス P:ホルショフスキー 1936年録音
考えてみれば、子どもでさえ気がつきそうなこんな単純なことに10年以上もこの業界は気づかないままに、ひたすら刺身のつまや付け合わせの野菜の豪華さを競っていたのです。そして、その愚を悟って軌道修正しようとしたときにはすでにお客は二度と足を運ばなくなっていたというのが日本のオーディオ業界の突きつけられた現実だったのです。
まず最初に確認しておきたいのは、「歴史的録音=音が悪い」という公式は捨てようということです。歴史的録音だからといって決して音は悪くないということです。「いったいどのようなバイアスを耳にかければノイズだらけの録音で音楽を楽しむことができるのだろうか?」などと貶されるほどには悪くはありませんし、なかには昔の録音ならではのハッとするほど魅力的なものもあります。
しかし、現実問題として、現在発売されている歴史的録音のCDの大部分は音が悪いのです。
こんな事を書くと、なんだお前は音がいいと言ったり、悪いといったり、いったいどっちなんだ?といわれそうですが、ここのところにこそ歴史的録音の音質をめぐる重要な問題があります。
少し録音の歴史を振り返ってみましょう。
エジソンが発明した録音方法はラッパに向かって大声を出して、それをシリンダーに直接刻み込むというものでした。いわゆる「機械吹き込み」と言う方法なのですが、この方式で録音されたSP盤は今日でもかなりの数が復刻されています。
次いであらわれたのが、「電気録音」というやり方で、大きなラッパから拾っていた振動を電気的に増幅して取り込むというやり方です。
この二つのやり方は原理的にはまったく同じであり、録音の時には原盤に直接カッティングをしていました。
ただし、この原盤というのは壊れやすいのでほとんど残っていないと聞いたことがあります。ですから、この時代の録音をCDで復刻しようと思えば原盤から復刻するのではなくてSP盤として発売されたものから復刻するのが一般的です。
ところが、SP盤というのは鉄の針で、それもかなりの針圧をかけて再生しますから盤の状態はすぐに悪くなってしまいます。歴史的録音に付き物のパチパチノイズの大部分は復刻の音源として使ったSP盤の盤質の悪さに起因している部分が大きいのです。
次いで登場した録音方法は「テープ録音」です。大戦中のフルトヴェングラーの演奏がこの画期的な方法で録音されたことはあまりにも有名です。
しかし、この録音方法が一般化し始めるのは戦後の51年と言われていますから、歴史的録音といっても51年を境目に音質が劇的に変化します。
やがてSP盤に変わる再生媒体としてLPが登場すると、この二つが結びついて再生のレベルは飛躍的に向上することになります。
しかし、テープというのはSP盤の原盤とは違って簡単にコピーできるという特徴を持っています。一本のマスターテープから何本ものコピーが作られて、それが外国に輸出されて、そのコピーテープから多くのLPが生産されるということがおこりました。
今さら言うまでもないことですが、アナログ録音のテープはダビングを重ねれば確実に音質は劣化します。その劣化したテープから生産されたLP盤は必ずしも万全な音質とは言い難くなることは明らかでした。
さらに、マスターテープといえども年月がたてば確実に劣化します。保存の仕方が悪ければその劣化は想像以上のスピードで進みますから、再発のLPは初版のものと比べれば音質は落ちざるをえません。
さて、そんな歴史的なことを並べ立てて何をいいたかったのかというと、歴史的録音をCDに復刻するときに「何を音源として使用したか?」によって、音質は天と地ほどの差が出るということを言いたかったのです。
つまり、SP盤に関して言えば、どれほど保存状態のいいSP盤を用意できるかでその復刻作業の成否は決まってしまいますし、テープ録音に関して言えば、マスターテープからの復刻なのかコピーテープからの復刻なのかでまったく仕上がりが違ってきます。そして、時にはマスターテープの劣化が激しいときには、初版のLPから復刻した方がいい結果が得られるという逆転現象が起こることもあります。
市販のLPから新たにLPを作ること「板おこし」といって昔は粗悪品の代名詞でしたが、歴史的録音の場合は一概にそうとはいえないことは知っておいて良いことです。
つまり、歴史的録音の復刻に関してはどれだけコンディションのいい音源が準備できるかで、その出来は大きく変わってくるということなのです。
そして、これは非常に残念なことなのですが、今、市場に出回っている復刻CDの大部分はあまり状態のよくない音源からの復刻であることが多いようです。そして、さらに悪いことに、その劣悪さを覆い隠すために様々なデジタル技術を駆使してお化粧を施している事が少なくありません。
残念なことですが、このようなCDを聞いていたのでは、歴史的録音の持つ魅力などは伺い知ることができません。
中古レコードの秘密
巷では一部の初期LPが一枚が10万円とか20万円とか言うとんでもない値段で取り引きされています。それは何も骨董的価値があるからその様な値がついているのではありません。一般的にLPの骨董品などというのはただの粗悪品にしかすぎませんからなんの値打ちもありません。
そうではなくて、ものによってはその様なLP盤はマスターテープよりも音質が良いことがあるからその様な値がつくわけです。少なくとも、あれこれの復刻版CDなどとは一線を画すほどに音質がすぐれているが故にその様な値がついているのです。
このことは、その様な天文学的値段が付いている超レアなLP盤だけでなくて、然るべき時期に然るべき方法でプレスされたLPならば、その後の再発CDよりは明らかに音質的にすぐれています。この、「然るべき時期に然るべき方法でプレスされた」と言うのは何とも持って回った言い方ですが、要は本来のマスターテープからプレスされたであろう真っ当なLP盤のことを言います。
となると、いわゆる国内盤と呼ばれた日本のメーカーがかつて販売していたLP盤はコピーテープからのプレスですからほとんどが「没」と言うことになります。残念ですが、それが真実なのです。
ですから、中古レコード屋にいきますと、いわゆる国内盤の中古レコードが二束三文で段ボール箱に放り込まれています。こう言うのは買ってきてもあまり有り難みはありません。
そうではなくて、外国の中古レコード屋から輸入されてきたレコードに掘り出し物があります。いわゆる超レアな貴重盤ではなくても、例えば価格で言うと数千円程度のレコードであっても、盤の状態が良いものは然るべき装置で再生すると信じがたいほど素晴らしい音で再生されます。
とりわけ録音にテープが本格的に使われ始めた51年以降のものなら、半世紀も前の録音なのにどうしてこんなに素敵な音で音楽を再生するのだろうと惚れ惚れさせられるようなものがあります。
実はSP盤についても同じ事がいえます。
ただしこちらは壊れやすいですし、針を通せば通すほど確実に盤の状態は劣化していきますから、コンディションのいいSP盤に出会うことは稀です。それに何と言っても、今の時代にSP盤を再生できる装置をもっている人はほとんどいません。残念ながら私もその様な装置はもっていません。ただ、国産のプレーヤーで一つだけSP盤を再生できるものがあるそうなので、暇ができればチャレンジしてみようかと思います。
それでも、状態のいいSP盤は、SP盤というものに対する認識を根底から覆すほどに素晴らしい音で音楽を再生します。
もしも、幸運に恵まれてそういうすぐれた音源を探し求めることができたならば、後はその音源をいかにうまく再生するか、そしていかに上手くデジタル化するかが課題です。
この辺のことは専門家ではないのであまり詳しくはないのですが、アメリカにある何とか言う金持ちが道楽でやっているレーベル(MYTHOS)はこのあたりが格段に優れているので素晴らしい復刻CDを次々とリリースしています。
かつてはあれこれのデジタル技術を駆使して聞きやすい音質に加工することが流行ったのですが、今はあまりはやらなくなりました。理由は簡単で、ノイズを洗い落とすと同時に音楽的においしい部分までも一緒に洗い落としてしまうからです。つまりどれだけデジタル技術が進歩しても、基本は復刻に使用する音源がすぐれていなければダメだと言うことです。デジタル技術を使った修復は細部の調整やあまりにもハッキリとした傷を治す程度で、本質的な部分をかえてしまうことはできないと言うことです。
具体的なレーベル名はさけますが、一時は高く評価されたいくつかのレーベルはかなり強引な修復を行っていたために、今日では随分と評価を下げてしまいました。今日ではノイズのリダクションもほとんど行わずに、音源にふくまれていた音楽的においしい部分をできる限りすくい取ろうという方向が主流になっています。
状態のよいLP盤やSP盤のすぐれた音質を知れば、それは実に喜ばしいことだといえます。
最近はオーディオ機器においても録音の仕方についても、CD黎明期のような愚かな振る舞いは是正されています。しかし、一度去った客は二度とは戻ってこないようです。情けないえばこれほど情けないこともありませんが、よほどのことがなければ日本のオーディオ業界が立ち直ることはないでしょう。(でに死んでいるというウワサもありますが・・・。
しかし、同じような文脈において、クラシック音楽そのものが瀕死の状態に直面することだけは避けなければなりません。
具体例を一つだけ上げておきましょう。
たとえば、メンゲルベルグ指揮によるマタイ受難曲のライブ録音(1939年4月2日)を一部の音楽学者たちは、「どのようなバイアスを耳にかければノイズだらけの録音に感動できるのだろうか?」と罵倒します。彼ら音楽学者たちは、返す刀でメンゲルベルグの演奏を時代錯誤の誤った演奏だと断罪し、そのような演奏を聞いて感動する聞き手を嘲笑します。そして、彼らはそのような誤った演奏ではなくて、彼らが推進する「ピリオド楽器による正しい演奏」を推奨するのです。
しかし、今まで述べてきたように、半世紀以上も前の録音でも、音楽を楽しむには何の不自由もないほどの音質を保持しています。彼らが言うように、耳に特別なバイアスなどかける必要は全くありません。
また、彼らが推奨するピリオド楽器による「正しい演奏」は、CDの見かけ上の周波数特性の良さに目がくらんで本末転倒の数値競争に狂奔して取り返しのつかないあやまちを犯したオーディオ業界とダブルのは私だけでしょうか。実際、私のまわりにピリオド楽器によるコンサートに通い始めるようになってから、「クラシック音楽はつまらなくなった」と言ってぷっつりとクラシック音楽と縁を切ってしまった人が何人もいます。
幸いにして、クラシック音楽界を席巻したピリオド楽器による「正しい演奏」というイデオロギーは、一時の勢いを失いつつあり、幾ばくかは正気を取り戻しつつあります。行き着くところまで行って「死に体」になってしまったオーディオ業界と比べればぎりぎりのところで踏みとどまったかという思いがあります。
しかし、未だに禍根の音は絶えていません。