2010年8月30日追加
この一ヶ月ほど「散歩」を続けています。
世間では「ウォーキング」などと言う洒落た言葉もあるようですが、なあに、そんな立派なものではありません。夕食を終えて一段落した頃に、妻と二人で住宅街の中を30分から1時間ほどブラブラと歩くだけです。
しかし、そんなブラブラ歩きでも思わぬ発見があります。
まず気がつくのは、風の通り道です。一つ角を曲がるだけで、風の表情が一変します。
それから、車で通りすぎるだけでは絶対に分からないちょっとしたアップダウンなんかも、よーく分かります。
夕立などがあって気温が少しでも下がると、締め切っていた玄関を開けて風を呼び込む家が増えます。
おかげで、夕餉のにおいと一緒にワンコが顔をのぞかせてくれたりします。
そんなワンちゃんたちと顔を合わせていくうちに、おなじみさんには勝手に「名前」をつけたりします。
たとえば、いつも「こんにゃろう!」という気合いの入った顔で踏ん張っている秋田犬には、「こんにゃろ犬」、口のまわりが黒いワンちゃんは「熊五郎」、我が家のボニー君ととても相性の悪いゴールデンには「宿敵ゴールデン」という要領です。
まあ、いい加減なものです。
しかし、大人になると、こういう「肌感覚」のレベルで外界と関わる事は少なくなります。
子供時代は、夏になると毎日のように家の近くを流れる川へ出かけては魚を追いかけていました。
あの頃は魚が潜んでいる石の一枚、一枚まで知りつくしていました。
クワガタムシやカブトムシがやってくる木なんかも両手で足りないほど知っていました。
ついでながら、オニヤンマやキリギリスにかまれたときの痛さもよく知ってました。あれは、ホントに痛い!!
私は田舎に生まれたので、外界とそんな形で関わり合いを持ちましたが、都会生まれの妻はまた別の世界を物語ってくれます。そして、その物語は全く異なるように見えて、その根底においては同一であることに気づかされます。
それは、自分の体と感覚だけを信じて、その途中に一切の夾雑物を挟むことなく外界と切り結んで、そのことだけを通して「自分の真実」をつかみ取っていたという事実です。
人は学べば「利口」になります。そして多くのことを学び、経験を積み重ねる事によって、より「利口」になります。
しかし、そのような「利口」さは、時には現実の多様性を自分の利口さが理解できるパターンという鋳型に流し込んでしまい、そのディテールに潜んでいる本質を押しつぶしてしまう危険性を内包しています。
時に、子どもの何気ない一言が大人の虚をつくことがあります。
それは、彼らが「肌感覚」で事物と対峙しているがゆえに、大人がパターン化のなかで押しつぶした本質を提示するからです。
最近になって、「こんにゃろ犬」の飼い主さんと知り合いになり、「コッシュ」という「正しい名前」を教えていただきました。しかし、相変わらず私たちにとっては「こんにゃろ犬」です。
コッシュ君には失礼ながら、それはとても大切なことのように思えます。
新しい事物と出会ってそれに「こんにゃろ犬」と名付けたのは私の「肌感覚」です。もしも、「コッシュ」という正しい知識を知ったからと言って、彼の全てを「コッシュ」として理解してしまえば、それはずいぶんとつまらない話です。
しかし、まわりを眺めてみれば、そんなつまらぬ話しかしない人が多すぎます。
利口な人の利口な話は、もううんざりです。
もちろん、心しなければいけないのは私自身です。
ですから、ワンコたちには失礼ながら、これからも「こんにゃろ犬」、「熊五郎」、「宿敵ゴールデン」としておつき合い願いたいと思っています。