オーディオ骨董論

2012年5月5日追加

最近、オーディオというのは骨董の世界に似ているなと思い始めました。

言うまでもなく、骨董の世界というのは美術の世界と似ているようで異なるものです。
そう言えば、小林秀雄はどこかで、「骨董というものは買ってみて、手元に置いてみないとその良さは分からない」みたいな事を書いていたのを思い出します。
つまり、骨董というのは「展示してある作品を鑑賞する」みたいな態度で接していては、その良さは分からない、まずは身銭を切って買ってみて、その買ったものを手元に置いて、なで回してみないとそのものの本当の良さは分からないというのです。いや、きっと「本当の良さ」みたいな抽象的な言い方は小林は嫌うはずです。もっと正確に言えば、手元に置いて、なで回してみてこそ、その物の良さが身に染みてくると言った方がいいのでしょう。

買ってみて手元に置いてみないと物の良さは分からない。
当然、買って、手元に置いているうちにその物が「贋物」であることに気づくこともあります。真贋入り乱れた「いかがわしさ」こそが骨董の魅力だとすれば、贋物をすり抜けていくスマートさなどはかえって物の美から己を遠ざけるだけです。
kottou
こう書いてくると、これもう、まるでハイエンドオーディオの世界そのものです。
私はことあるゴトにハイエンドオーディオの世界を貶しているのですが、きっとそう言う「危うい世界」に遊ぶ御仁たちから見れば、全く持って「泣き」の足らぬ洟垂れ小僧とうつることでしょう。

もちろん、骨董の世界にもつまらぬ連中はいます。
「いくらですか?」「値上がりしますかね?」

オーディオの世界もまた同じ。
「○○万円もしたんですよ!」「何たってタンノイですよ!」

物の美はお金に換算することなど不可能、それは言うまでもないこと。
ブランドがそういう物の美を保障することなど有り得ないことも当然。
ましてや、カタログをいくら眺め回してみたって何も分からない。

やはり、身銭を切って手元に置き、「ああ、やっぱり駄目だった」と思いながらも、その「駄目だった」に至るその物との格闘の中で己の「目」が鍛えられていく。
最後に頼りになるのは、そうやって鍛えられた己の目への信用だけ。

そう言えば、あの青山二郎の晩年は、大金を持って家を飛び出しては地方の骨董屋をまわっては骨董を買いあさったそうな。そんな青山をやっとの思いで見つけ出した家族は、宿泊していた旅館で「承知」と張り紙をされた大量の骨董品を見つけ出す。
「承知」とは「屑だと承知」の短縮形らしいです。
なるほど、最後は屑だと承知しながらも、それでもその中にもしやの「美」がありはしないかと思って買わずにおれなくなるらしい。これを「依存症」と切って捨てるのは簡単ですが、道を究める、「極道」というのはそういう物なのでしょう。

いかにも「馴染み」と思われるお客と店員が車座になって話をしていて、そんなところへノコノコ入っていくとジロッと一瞥を投げかけられると言うお店があります。
何とも居心地の悪い思いにさせられて、文句の一つも言いたくなるのですが、そこが極道のたまり場と思えば、なるほど洟垂れ小僧が出入りするような場ではなかったわけです。

ああ、結局、私はどこまで行ってもただの「いい人」から一歩も外へは出られないようで