天は自らを助くるもののみを助く

2011年12月31日追加

今年もそろそろ終わりに近づいています。
一年が終わり、新しい年を迎えれば、あれやこれやがリセットされて、何か新しい一歩が踏み出せるような気がするのですが、それは基本的には「幻想」です。大晦日から元旦に日は移行したとしても、それは今日に続く明日であり、昨日に続く今日以外の何物でもありません。
その両者は何物かによってアイソレートされているわけではなく、今日という日までに積み重なった「あれやこれや」は全て大晦日から元旦へと受け継がれます。まあ、せいぜいが正月のお屠蘇気分でそう言う「あれやこれや」を脇に置けるくらいで、それも数日もすればいやでも現実と向き合わざるを得ません。

それにしても、2011年は酷い年でした。
1000年に一度の津波と言うことですが、1000年前には原発は爆発しなかったのですから、まさに言葉の最も正しい意味における「未曾有」の出来事だったといえます。
そう言う現実を背負った年であれば、安易なリセット気分は戒めなければいけないでしょう。

そして、今必要なのは、もう一度自らの「選択」を問い直すことでしょう。
人は選択しながら成長します。
人が生きるというのは選択し続けると言うことです。

その選択は、朝ご飯をどうしようか、お昼はどうしよう、飲み物はコーヒーにしようか紅茶にしようか等という小さいレベルのものから始まって、進学先や就職先、さらには結婚相手をどうするかという大きな選択まであります。しかし、大小の違いはあっても、私たちは実に持って無数の選択をしながら一日をやり過ごしていることに気づかされます。
そして、今ある自分というものは、そう言う無数の選択の「結果」もしくは「なれの果て」なのです。
もしも、今の「自分」を変えたいと思うならば、そう言う「選択」の有り様を根本から見直して変えなければ何も変えることはできません。

そして、これと同じ事が、国家や社会のレベルでも言えることに気づかされます。
今ある国家や社会の有り様もまた、私たちが集団として無数に繰り返してきた「選択」の「結果」、もしくは「なれの果て」なのでしょう。その結果は決して誰かに押しつけられたものではなくて、一人一人が責任を負うべき結果のはずです。

政治に不信感を持ち、政治を馬鹿にするものは、必ず政治から馬鹿にされます。
つまりは、政治を馬鹿にする国民は馬鹿な政治しか持つことができず、結果としてそのような政治しか持ち得ない国民というものは「馬鹿な国民」と言うことになります。

「天は自らを助くるもののみを助く」という言葉があります。
私はこの言葉はキリスト教の言葉かと思っていたのですが、実はイギリスの思想家サミュエル・スマイルズの「自助論」に書かれている言葉だと言うことを最近になって知りました。

サミュエル・スマイルズ
Samuel Smiles
彼は政治というものは基本的には制度やシステムを作ることはできても、それに魂を入れるのは一人一人の市民の「覚悟」のようなものだと言っています。ですから、突然強力な指導者が現れて、今ある状況を一気に解決してくれるようなことを期待するのは根本的に間違っているというのです。つまりは政治の力だけで今ある現状を打開できるなどと言うのは全く持って「横着」な考えだというのです。

2011年は本当に酷い年でした。
しかし、その事によってもたらされた「なれの果て」のような有様に対して、「あいつが悪い、こいつが悪い、政治がもっとしっかりしろ」と言っても何も変わらないでしょう。
そう言う物言いというのは、冷静に眺めてみれば聞き分けのない子どもがだだをこねているのと大差ありません。

大事なのは一人一人が腹をくくって「覚悟」する事でしょう。
そして、腹をくくって選んだ選択であれば、その事に最後まで責任を持って見届ける義務が私たちにはあると思います。

来年が少しでもよい年になるかどうかは、そう言う「覚悟」を持った選択を行い、そしてその「選択」の結果を見届ける強い「義務感」にかかっていると思います。
天は自らを助くるものしか助けてくれないのです。