サーバーとクライアントシステムに関する戯言

2000年12月28日追加
大昔の駄文ですが、捨てるには忍びない部分もありますので収録しておきます。

ネットワークシステムをどういう観点から分類するか?

新しいテクノロジーは、その背後に新しい哲学を必ず内包しています。
「IT革命」という言葉は内容がほとんど吟味されることもなく決まり文句のように使用されますが、もしある種のテクノロジーの進歩が「革命」的ともよぶべきものであれば、それは社会のあり方までをも革命的に変革させる力を内包するものでなければなりません。

コンピューターはネットワークの一員に組み込まれてはじめて一人前といえます。インターネットにアクセスもできず、メールのやりとりも出来ないというスタンドアローンのパソコンというのは寂しい存在です。
Server
しかし、「ネットワーク」という概念は初心者にとては実に分かりづらいもののようです。
ネットワークの説明に「銀行のオンライン」やJRの「緑の窓口」などを例に説明している書籍やサイトなどもあって、そう言う解説を読むとますます分からなくなってしまいます。何故かというと、今日のコンピュータネットワークを説明するのにそれらの例は全く相応しくないからです。
そう言う解説を読むたびに、「ああ、この人は今日的なコンピューターネットワークの核心部分を理解できていないんだな」と思わざるを得ません。

ネットワークという概念を理解するのがむずかしいのは、規模の面でも、それが内包している哲学の面でも多種多様にわたっているからです。そのため、ネットワーク概念を説明するときには様々な側面から分類をして、その分類に沿って説明されるのが一般的です。
ある人はネットワークの規模に注目して分類しますし、ある人は外部への関わり(開かれているか、閉じているか)によって分類をしようとします。
もちろん、どの分類も間違いではないですし、重要な観点だと思います。

しかし、今日的なネットワークを理解する上で最も重要な観点は、「ネットワーク上における情報の流れ方」ではないかと思います。ですから、ネットワークの分類もこの「情報の流れ方」によって分類することがもっとも分かりやすいのではないでしょうか。

この観点で分類すると、ネットワークは大きく二つの種類に分かれます。

一つは「ホスト~端末型」とでも呼ぶべきようなシステムであり、
もう一つは「サーバー~クライアント型」とでも呼ぶべきシステムです。

この二つはコンピューターがネットワークで繋がれているという外観は同じですが、内包している哲学は全くの正反対です。
そして、ネットワークの説明に銀行のオンラインなどを例に出して説明するのは相応しくないといったのは、それらが典型的な「端末~ホスト型」であるのに反して、インターネットに代表される今日的なネットワークが典型的な「サーバー~クライアント型」だからです。

内包する哲学が180度ほども違うシステムを使って今日的なネットワークシステムを説明するのは無理というものです。

ホスト~端末型システムについて

このシステムの典型としては銀行のオンラインシステムを思い出してください。
さて、情報の流れと言うとき、二つの側面が重要です。

一つは、情報が基本的にどこに蓄積されているのか、そしてその情報がどのような経路でネットワーク上を流れるのかです。

「ホスト~端末型」ではすべての情報がホストコンピューターに蓄積されています。
端末はその蓄積された情報を一方的に受け取るだけです。
そして、これが最も重要なことですが、どのような情報を提供するのかはホストコンピューターが厳密に管理を行っています。銀行の端末からホストコンピューターを操作できればとっても便利なのですが(^^;、それは不可能です。

つまり、「ホスト~端末型」のシステムにおいては、情報は一箇所に集中的に蓄積されていて、その情報は基本的にホストから端末へと、つまり「川上」から「川下」にしか流れません。
反対方向、つまり「川下」から「川上」にながれるのは情報の提供を求める端末の哀願の声か、ホストが提供を求めた情報を端末が送信するときぐらいでしょう。
端末は何も持たず、あらゆる情報はホストコンピューターから提供されるだけですから、端末に出来ることはそれらの情報を参照するだけです。

このシステムを貫く哲学を一言で表現すれば「中央集権」です。

そう言えば、SF小説はコンピューターが人間をがんじがらめに管理する未来社会を繰り返しえがいてきました。一昔前まで、コンピュータのネットワークと言えば全てこのスタイルだったわけですから、SF小説が未来社会をそのようなものとして描くのも仕方のないことだったと言えます。

しかし、これは端末のコンピューターの情報処理能力が脆弱だったという現実のもとでは仕方のないシステムでもありました。端末が情報を蓄積しようにも意味を持つだけの量を蓄えることもできませんし、蓄積された情報を目的に応じて処理することも不可能でした。
端末が何かの目的で情報処理をしようとすると、ホストコンピューターにお伺いを立てて、指定された空き時間のなかでホストコンピューターにアクセスしてその能力を借りるしかなかったわけです。

そのような状況の下では、ホストが全ての情報を管理し、端末からの情報処理の依頼についても一元的に管理するという中央集権的なシステムは唯一の解答だったわけです。

このシステムが内包する哲学は、官公庁や大企業のシステムとピッタリと重なり合うものでした。ですから、そのような組織においては実にスムーズにこのようなシステムが導入されていきました。
このようなシステムにおいては、情報の蓄積されている「川上」に近いと言うことは絶対的な強みであり、その格差は個人レベルでの能力や努力で埋まるものではありません。これを不条理と感じる人にとってこのようなシステムは桎梏以外の何物でもありませんが、個人の能力や独創性よりは組織におけるポジションの方が優先される大企業や官公庁にとっては相応しい特性だったといえます。

さらに付け加えれば、マスメディアが大きな力を持つ社会での情報管理も、この「ホスト~端末型」システムと全く同じ構造を持っています。マスメディアがホストであり、受け手である読者や視聴者は端末に位置づけられます。
情報はホストである一部の巨大メディアや権力機構だけが独占し、一般大衆は時々の都合にあわせてホストが容認する情報だけが提供される端末にすぎませんでした。こういう社会においては、情報源に近いと言うだけで一つの能力となります。
例えば、音楽評論の世界では、この「川上に近い」と言うだけで、何の能力もなく、勉強もしていない人物が、「評論家でござい!」と大手を振ってまかり通る時代だったんです。

70年代はまさに大型コンピューターがホストとして君臨する「ホスト~端末型」システムが全盛を極めた時代でした。そして社会そのものも様々な端緒的な動きはあったとしても、基本的には個人よりは組織が優先される構造が厳然と存在していました。

サーバー~クライアント型システムの登場

ところが、80年代に誕生したパソコンはこのようなシステムとは全く別の哲学を内包したシステムを生み出すこととなります。
そして、90年代以降、この新しいシステムが「絶対的」とも思えた「ホスト~端末型」のシステムを駆逐していくことになるわけです。いわゆる「サーバー~クライアント」型というシステムであり、その典型例としてインターネットを思い出していただければと思います。

パソコンはもともとは趣味の道具として生まれました。いってみれば「おもちゃ」として誕生したわけです。この「おもちゃ」がやがては世界そのもののあり方を変えるようになるとはその時誰が想像したでしょう。
しかし、その信じがたい事をこの「おもちゃ」はやってのけたのです。
80年代にパソコンが誕生するや否や、その発達は目を見張るものがありました。倍々ゲームという言葉がピッタリ当てはまる勢いで、パソコンは自らのパワーを高めていきました。
この倍々ゲームというのは最初の頃は大した変化をもたらしませんが、あるレベルを超えるとその変化はまさに劇的なものとなります。

パソコンのハード面には詳しくないのであまり具体的に指摘できないのですが、ある日突然に、かつてはホストコンピューターとして君臨していた70年代の大型コンピューターを能力面で上回るようになります。90年代の半ばごろでしょうか。

そして驚くべきは、それ以降もこの倍々ゲームは止まらないのです。
2001年現在におけるパソコンの能力は、70年代の大型コンピューターの能力をはるかに凌駕します。
小さなパソコンの中に、かつては一部屋を占拠していた大型コンピューターを上回る能力があるというのはにわかには信じかねることですが、疑いもない事実です。

この現実がコンピューターのネットワークを全く別のものに変貌させました。
端末にすぎなかったパソコンが、情報を蓄積し、加工・処理を行い、外に向かって発信することができるようになったのです。
端末に位置するパソコンがホストコンピューターを凌駕するパワーを持ったわけです。

結果として、ホストはサーバーに転落します。
一言で言えば、端末は「クライアント」という独立した人格を持つようになり、ホストは主人の地位から転落して、サーバー(奉仕者)へと身をやつします。。
ホスト(主人)から、サーバー(奉仕者)へ、「端末」から「クライアント(依頼者)」へと言う180度の転換は「サーバー~クライアント型」という全く新しい哲学を内包したシステムを登場させのです。

この新しく登場したネットワークシステムは、旧来の「ホスト~端末型」のネットワークと比べて外観はほとんど変わっていません。真ん中にサーバーが存在し、その周辺にたくさんのクライアントがつながっていますから、その姿だけならホスト~端末型と何ら変わるところはありません。
しかし、内包している哲学と方法論は全くの別物でした。

それは、ネットワーク上における情報の流れを方を見れば一目瞭然です。
「サーバー~クライアント型」システムでは、情報は基本的にはクライアントが生みだし、クライアントに蓄積されています。もちろん、サーバーにも情報は蓄積されていますが、それらは基本的にクライアントから提供されたものであり、それ故にパブリックな領域として位置づけられることが一般的です。
クライアントはサーバーに蓄積されている情報を自由に引き出すことができますし、場合によっては自由に追加したり変更することもできるのが一般的です。
かつてのホストコンピューターが一元的に管理していた領域とは全く性質が異なるもので、クライアントの側から見ると、自分のパソコンの「ハードディスクが拡張された領域」という方が実感に近いかもしれません。

そして、これが大事なことですが、このシステムにおいては、そうして蓄積されている情報が、ネットワーク上につがっているパソコン間で自由にやりとりができるということです。
ですから、このシステムでは情報は無数に張り巡らされた網の目の上を自由に駆け回りますから、情報源に対する川上も川下も存在しません。

サーバーの最も重要な役割は、こうしてやりとりされる情報の流れを管理することではなく、そのような情報の流れが円滑にすすむように奉仕することです。
サーバーに求められるのは、山のように押し寄せるクライアントからの要望を「正確に」、「素早く」、そして「休むことなく」応えつつづけることへと変わっていったのです。
ホストコンピューターは「神」から「奴隷」に転落したのです。

このシステムを貫く哲学を一言で言えば「自立と共生」です。少し前まで「自立と分散」と言っていましたが、最近少し考えるところがあって「自立と共生」と言うようにしています。
ネットワークの主役は「ホスト」から「端末(クライアント)」に180度変わってしまったのです。

テクノロジの革命は時に社会のあり方までも変えてしまいます。
産業革命という名で呼ばれるテクノロジーの変革は中世的な封建社会を崩壊させ、近代市民社会という全く新しい社会構造を生み出しました。
想像を絶するパソコンの進化は古い社会構造にフィットした古いネットワークシステムを解体しました。それが内包する哲学は、古い社会構造の中で収まりきるとは思えません。しかし、それがかつての産業革命のような社会変革をもたらすだけの力を持っているのかどうかは分かりません。
大きな可能性は感じます。ポイントは社会の端末にあたる一般の人が、コンピューターネットワークの端末がクライアントへと飛躍していったような変化が起こるかどうかであり、好むと好まざるとに関わらず、このテクノロジーの革命がその様に人々を追いやって行くだけの力を持つかどうかです。

大企業やマスメディアもその力を発揮してこのネットワーク上で膨大な情報を流しています。そのような情報を受け入れるだけで汲々としている人も少なくありません。
また、与えられた情報を得々と自分の意見であるかのように弁じ立てている人もよく見ます。そういう人を見ると事態はそれほど楽観的ではないようにも思います。
しかし反面、多くの個人が積極的に情報を発信しはじめていることも事実で、一部の特権的な人々が情報を独占し、管理するという体制は疑いもなく崩れはじめています。

音楽の分野では近年、「音楽の友社」の経営危機が囁かれています。当然のことだろうなと思います。こういう事大主義的でかつレコード会社のひも付き評論では、質の面でも量の面でもネット上の情報に太刀打ちできなくなっています。
価値ある情報がフリーで手にはいるのに、価値のない、時には、いや、往々にして過ちと虚偽に満ちた情報をお金を払ってまでも入手したいという人はそうそういるものではありません。

私が見るところ、専門的な分野ほどこの傾向は強いようです。そして、このような変化が社会の根幹にふれるような部分にまで広がっていくかどうかがポイントだと思います。

今という時代は組織と個人が自らの領地をめぐって鬩ぎ合っている時だといえます。
少し前までは、基本は組織であり、個人はその構成要素として位置づけられていました。今起ころうとしている変化は、この主客が転倒しようとしているようです。
自立した個人がまず第一義的に存在し、その集合体として様々な階層性を持った組織が生まれようとしているのです。なんだか甘ちゃんの理想論みたいになりましたが(^^;、果たしてこの変化がただの空想で終わるのか、それとも社会の構造を根本的に変えていくような力を影響力を持つのか、今後数年の動向を見極めたいと思います。

話がなんだかとんでもなく横道にそれてしまいました。
さて、本旨は「サーバー~クライアント型」のシステムについてです。
このシステムにおけるサーバーという存在の基本は、その名の通り「奉仕」に徹することです。
そして、私たちが今から構築しようとしているのはこのような意味でのネットワークの奉仕者であるサーバーなのです。

クライアントからの要望は絶えることなく押し寄せて、おまけにその要望は多様です。ですから、サーバー~クライアント型のサーバーに求められる能力は、かつてのホストコンピューターに求められた能力とは全く異なります。

まず第一に、サーバーは休むことを許されません。不意のシステムダウンも許されません。
何よりも安定性が優先されますから、結果としてほとんどのサーバーはUNIX系のOSを採用することになります。窓の世界はワークステーションとしての使い勝手の良さは出色ですが、その構造上、使えば使うほどシステムは不安定になっていきます。(この辺は書き始めると長く名なりますから、機会があれば項を改めて書いてみたいとは思います。)NTサーバーであれば安定はましますが、UNIXの敵ではないようです。
おそらくは今後もサーバー機はUNIX、ワークステーションは窓の世界、という棲み分けが続くことでしょう。

第二に、サーバーは多種多様な要望に応えなければなりませんから、その要望にあわせて機能を細分化していかざるを得ません。あらゆるニーズに応えるスーパーサーバーみたいなものも発想できないわけではないでしょうが、規模が大きくなれば不都合もふえます。
それよりは一つの機能に絞って単純化した方が安定性という点には大きなプラスとなります。
そのため、一口にサーバーと言ってはいますが、その内実は多種多様です。
インターネットの世界で活躍するWebサーバーやメールサーバー、FTPサーバーはさしずめ一番の花形サーバーでしょうか。それ以外にも、LANで活躍するファイルサーバーやプリンターサーバーなど実にバラエティに富んでいます。
その多様性はクライアントの要望の多様性に由来していますから、今後もさらに新しいサーバーが誕生していくことでしょう。

そして、第3に大切なのは、サーバーは表舞台に出てはいけないと言うことです。クライアントがサーバーの存在などをほとんど意識することなく要望をこなさなければなりません。インターネットではリンク部分をクリックするだけで目的のページに飛ばなければなりません。メールは送信ボタンをクリックするだけで相手に送られなければなりません。
誰もそこでWebサーバーやメールサーバーが働いていることを意識すらもしていません。こういうサーバーこそがもっとも優秀なサーバーだと言うことです。クライアントがサーバーを意識するのはシステムがダウンしたときだけです。

その様なサーバーの特性を考えるとある重要な側面に思い当たります。
サーバーというものは「価値判断」をしません。

クライアントからの要望があればそれを滞りなく果たすことだけが「善」なのですから、その要望の内容に立ち至って価値判断をするというようなことはありません。
例えば、新聞の読者欄に投稿があったとき、新聞社はそれが掲載に値するか否かの判断を行います。その判断が妥当なものか否かは別問題としても、そこで一度判断というバイアスはかかります。
マスメディアにおける情報の提供というものは、よかれ悪しかれ、必ず何らかのフィルタリングがかけられて外部に出ていきます。

しかし、サーバーはそのような価値判断は一切しません。彼は(彼女かもしれませんが・・・)、寄せられた要望をこなすだけで、一切のフィルタリングなしで発信されていきます。
この無秩序と無政府状態をネット社会における影の部分という人がいます。
しかし、この考え方は根本的に間違っていると思います。
クライアントがかつての端末のように何の力も持たない存在であれば、ホストによるフィルタリングも必要でしょう。しかし、「サーバー~クライアント型」のシステムが社会全体を覆っている今となっては、端末を独立した人格を持った自立した一個人としてのクライアントとして認めるしかないのですから、ネットワーク上を行き交う情報をどのように扱うかは基本的にはクライアントの個人責任に属する問題とするしかないのです。

このシステムの哲学を「自立と分散」から「自立と共生」と言い換えたのは、半分以上はそうなってほしいという願望を込めたものでした。自立した個々のクライアントがバラバラの分散状態を生み出すのか、それとも強固な絆で結ばれた共生関係を築くのかは分かりません。
しかし、望ましいのは一人一人が個人としてしっかりと自立しながら、その一人一人がしっかりと横にも繋がっていけるような存在になることです。そんな願いも込めて、「自立と分散」から「自立と共生」としたわけです。

俗な言い方ですが、光があるから影ができるのであって、その光が強ければ影もまた濃くなります。影がいやなら光を遮るしかないのですが、世間ではそういうことを「本末転倒」とよびます。本来光と影はセットとして存在するものであり、そういう一切を含みながら、自己責任の原則に基づいて解決していくしかないのでしょう。
権力という名のお偉い方々によるお節介はウンザリです。

まとめにかえて

サーバーの仕組みにふれることによって、始めてIT革命という言葉の本当に意味するものが見えてきたような気がしました。
IT革命というのは、世間では「企業家精神」とか「ベンチャー企業」とか「グローバルスタンダード」とか、新しい金儲けの手段のようにしか語られません。
おそらく、今日IT革命を唱える多くの政治家や企業家たちは、おそらくそういうレベルでこの概念をとらえていると思いますし、その様なものとして構築されていっています。

しかし、ある人はこれを第2の産業革命とよびます。
産業革命自体には何の価値観も思想もありませんが、その内包する哲学は中世の封建社会を結果として崩壊させました。はたしてIT革命がその様な力を持つのかどうか、なかなかに興味深い展開となってきたように思います。

近年、「権威」が崩壊してきています。政治家も官僚も、先生も医者も警察も、弁護士や裁判官や検察官も、ありとあらゆる権威が地に落ち始めています。そして、意味のない外観よりは、その内実で判断される時代が来ようとしているます。
その最大のキイワードは「情報」です。
私たちが外観でなく、実質で判断するためには「情報」が必要です。それも管理された情報ではなく、本当に必要なものは無秩序に、そして無政府的にネットワーク上を流れている情報達です。それはいかなる力を持ってしても管理統制できない情報の流れでもあります。
IT革命は好むと好まざるとに関わらず、そういう新しい情報の流れを産み出してしまいました。そういう生の情報が、あらゆる分野において虚飾を一枚一枚はぎ取っています。

かつてヒトラーが語った言葉「嘘も100回言えば本当になる」は、現在までの権力者達にとっても真実であり続けました。そのやり口が「野蛮」か「上品」かの違いはあっても、その言葉は真実であり続けました。
情報が管理された中で、虚偽の情報ばかりを集中的に提供されれば、それを虚偽だと見抜くにはとてつもない勇気と知性が必要です。しかし、今や情報は押さえきれない勢いで流れ出しています。権力にあるもの(注:権力と行って言えるのは政治的なものだけではありません。例えば音楽の世界では、メジャーレーベルとそのお先棒である一部の音楽ジャーナリズムなどを含む集団を指し示す言葉として使っています。)が、どれほど自分に都合のいい情報だけを流そうとしても、至るところで、「それは嘘だ!」という声がわき起こってきます。
彼らがどれだけ虚偽の情報を流し続けようと、それが虚偽である以上、虚偽は虚偽以外の何者でもなくなるのです。

果たしてIT革命は第2の産業革命となるのでしょうか?

<2015年4月29日追加>

私はこういうサイトを始めたのは1998年の11月でした。
それが何を意味しているのかを考え続けて、自分なりの結論を得てまとめたのがこの一文でした。これを記してから15年の時間がたつのですが、「果たしてIT革命は第2の産業革命となるのでしょうか?」という問いかけには未だに結論は出ていないようです。

かつては「IT革命」といわれた大きな変化は、今やごく普通の「環境」として生活の隅々に定着してしまい、言葉としては完全に「死語」となってしまいました。
しかし、それが引きおこした社会変革の実相は未だにはっきりとは見えてきません。

その最大の原因は、「コンピューターネットワークの端末がクライアントへと飛躍していったような変化が社会の端末にあたる一般の人々においても起こるかどうかであり、好むと好まざるとに関わらず、このテクノロジーの革命がその様に人々を追いやって行くだけの力を持つかどうかです。」という問いかけに対して、未だに確たる答えが出ていないからです。

もっと、分かりやすい言葉で言えば、片方には一個人の立場でしっかりと外からの情報を受け取り、さらには外に対しても発信していろいろな形で横につながっていこうという人がいるのに対して、他方には自らをひたすら端末の立場におこうとしている人々も少なくないように見かけます。
正直言って、かくも己を端末の地位に貶めて喜々としている人々がかくも多数生まれるようになるとは想像の外でした。

電車の中でひたすらスマホで情報をチェックしている人を見ると、かつてのSF小節が描いたコンピューターが人間を支配する時代も近いのではないかと思ってしまったりもします。
下手をすると、このシステムもまた、現在社会が生み出してしまった「」だったのかもしれません。