ブルックナー、言葉を持たなかった音楽家

1999年2月1日追加 2015年3月一部加筆訂正

Bruckner
ブルックナーほど評価が多様に別れる人も珍しいと思います。神の声の代弁者だと天まで持ち上げる人もいれば、アマチュア作曲家と酷評するアシュケナージのような人もいます。
演奏についても同様で、全く同じ演奏を、ある人は最大限の言葉を使って褒めあげていると思えば、他方では酷評しているという次第です。

こういうことがおこる原因は、各人が同じブルックナーについて語っているようで、それぞれが全く別のブルックナーを見ているためです。
確かに、ブルックナーが巨人であることは事実です。
ところがこの巨人は、巨人にふさわしく堂々たる人生と創作活動を行ったのではなく、右往左往の人生を送った人でした。
同じ巨人でも、そこがベートーヴェンやブラームスなどとは異なるところです。

ベートーヴェンやブラームスについて語るとき、人々はベートーヴェンやブラームスの同じ側面を見つめ、語っています。
ところが、ブルックナーの場合は事情はそれほど簡単ではありません。
右往左往の人生と創作活動をおくったブルックナーの右に行った姿に共感する人もあれば、左に行った姿に共感する人もいるという次第です。

音楽における言葉の論理

「音楽は言葉の尽きた地点から始まる」と言われます。

一般的には、音楽は言葉では説明不可能だと言うことを表現したいときに使われる言葉です。
しかし、「言葉の尽きた地点」という言葉を字義通りに受け取れば、音楽の前には言葉による思念が前段階としてに存在しているとも受け取れます。つまりは、音楽の根底には言葉による論理が尾てい骨のように色濃く残ってる、もしくは、尾てい骨どころか背骨のように横たわっている音楽もあるのではないか、とも読み取れるのです。

例えば、一つの楽想から別の楽想に移るとき、殆どの作曲家はその移行がスムーズにいくように経過句をはさみます。
そうする方が音楽はスムーズに流れますし、聞き手にも親切です。
それは例えてみれば、段落と段落の切れ目に接続詞をはさみこむようなものです。前段と後段が「そして」でつながるのか、「しかし」でつながるのかくらいは明示しておいた方が親切なのです。

楽曲全体の構想についても同様です。
例えば、ソナタ形式なんてものは、概ねこんなものです。

第1楽章は短調のソナタ形式でスタートします。「現実はこのようにホントに厳しいぞ!」というアジテーションです。
そして、この第一楽章で提示された問題が様々に展開されていきます。「状況は厳しいががんばろう!」「状況は絶望的だが、未来は必ずあるはずだ」「みんなにくじけずにがんばろう」等です。
そして最後は、同名長調で、「いろいろあったが我々は勝利したぞ!」と凱歌を挙げて終わります。
単純化がすぎるかもしれませんが、それでもクラシック音楽のおける王道とも言うべきソナタ形式なんてものも、その本質はまさに音によるドラマであり、それ故に言葉による論理が根底に横たわっています。

ところが、ブルックナーの音楽を見てみると、このような言語的な論理が驚くほど希薄なのです。
その典型が、一つの楽想が終わると全休止でぶつ切りにして、唐突に別の楽想が始まるというブルックナー休止です。
言いたいことをしゃべり終わると、一息ついて、前との関連性は全く示さずに別のことを話し始めるようなものです。本来であれば、そこに接続詞に相当するような経過句をもってきて、この二つの楽想をスムーズにつなごうという気になりそうなものですが、特に初期の作品ほど全く無頓着にぶつ切りにしています。

楽曲全体の構造も、最後になって唐突に壮大なコラールが現れたりして、お約束のように神の偉大さをたたえます。それは近代的な自我の発露にはほど遠い、どちらかといえば中世的な世界です。
そういう意味において、アシュケナージはブルックナーのことを「アマチュア作曲家」と言ったのです。
ブルックナーの音楽は、古典派以降の音楽に親しんだ耳には取っつきにくい音楽なのです。

文学的素養の欠落、・・・それも桁外れに!

よく知られている逸話ですが、ブルックナーはこの時代の音楽家としては、例外的と言えるほどに文学的素養が欠落していました。弟子が彼の部屋を訪ねたときに本が2冊しかなく、おまけにその内の一冊は「聖書」だったという逸話が残っています。
ハンスリックから作品を攻撃されたときも筆で反撃するのではなく、皇帝の力で彼の筆を和らげてくれるようにと嘆願する始末です。
そして極めつけは、年端もいかない少女に恋をしては、訳の分からない手紙を送っては振られ続けた彼の人生です。

それは、いいとか悪いとか言う問題ではありませんが、その欠落ぶりは度外れたものでした。

こういう生活や音楽を見ていると、彼の中においては「言葉」というものは全く重要性を持たないか、もしくは欠落していたのではないかと想像されます。
そういう不器用さを、「ドイツの野人」と言う人もいますが、問題はもっと根本的なところ、つまり、言葉で思考する必要性を待たなかった人間の悲しさがあるように思うのです。

つまり、ブルックナーにとって思考の手段はまずなによりも「音」だったのです。
これは、決してレトリックではなく、現実に「音」で思考する人だったのです。それ故に、ブルックナーが「音」で思考し、表現したことを何とか言葉に翻訳をして話そうとしてみても、それは「音」で思考したことの何パーセントにもならないのです。
私たちが、日本語で思考したことを,慣れない外国語で表現することを思えば理解しやすいでしょう。

つまり、彼の音楽は「言葉の尽きたところ」から始めるのではなく、「全く言葉のないところ」から生まれてきたような音楽なのです。

理解されんがための悲しいまでの努力

これと比べれば、ワーグナーとブラームスの対立などは仲間内の喧嘩みたいなものです。お互いは言葉は通じ合った上で、お互いの話し方が気に入らないといってもめているようなものです。

ですから彼の音楽を古典派以降のスタイルの範疇で理解しようとすると、全く出来損ないの音楽という烙印が押されるのも当然です。
ブルックナーの右往左往の人生はここから始まっているのです。

何しろ、自らの思いを生の形で提出すれば理解されず、分かってもらおうと彼らの言葉で語ればあまりにも不器用にならざるを得ないのです。
理解されんがための悲しいまでの努力、それが彼の一生だったのです。

しかしながら、理解されない音楽を理解されようとすれば、一般の人にもわかりやすく言葉の論理を導入しなくてはなりません。言ってみれば、音の世界に生きている人間が言葉を身につけて、さらにその言葉の論理で音楽を翻訳して提示する努力が必要だったのです。
それは、彼独自の音の世界を後期ロマン派様式に仕立て上げて世に問う努力です。

こうしてみると、ブルックナーほどの音楽家が、何故にあれほどまでもワーグナーを敬愛したのかが理解されます。ブルックナーにとってワーグナーは「語学」の教師だったのです。

見る角度によって評価が正反対!

こうしてみてくると、ブルックナーには2つの顔が存在します。
それは、言葉の論理を持たない、またはきわめて希薄な音楽を書き続けた初期のブルックナーと、それでは理解されないので、必死で言葉の論理を身につけて、それによる翻訳技術を身につけた後期のブルックナーが存在です。

おそらくこの二つのどちらを良しとするかで、評価は180度変わってくるのです。

そこで、まずは簡単に彼の作曲活動(交響曲の主な稿に限る)を年表形式で振り返ってみます。年号はそれぞれの作品が完成したと思われる年です。

  • 1863年:交響曲ヘ短調
  • 1866年:交響曲第1番ハ短調(リンツ稿)
  • 1869年:交響曲第0番ニ短調
  • 1872年:交響曲第2番ハ短調(第1稿)
  • 1873年:交響曲第3番ニ短調(第1稿)
  • 1874年:交響曲第4番変ホ長調≪ロマンティック≫(第1稿)
  • 1876年:交響曲第5番変ロ長調1877年交響曲第3番ニ短調(第2稿)
  • 1877年:交響曲第2番ハ短調(第2稿)
  • 1878年:交響曲第4番変ホ長調≪ロマンティック≫(第2稿)
  • 1880年:交響曲第4番変ホ長調≪ロマンティック≫(新フィナーレ)
  • 1881年:交響曲第6番イ長調
  • 1883年:交響曲第7番ホ長調
  • 1887年:交響曲第8番ハ短調(第1稿)
  • 1889年:交響曲第3番ニ短調(第3稿)
  • 1890年:交響曲第8番ハ短調(第2稿)
  • 1891年:交響曲第1番ハ短調(ウィーン稿)
  • 1894年:交響曲第9番ニ短調(未完成)

太字に色を変えたのは、今日もっとも一般的に演奏されるもので、言うならば「決定稿」とも言うべきものです。
悩ましいのは、赤字で表記した「交響曲第1番ハ短調(ウィーン稿)」です。何故に悩ましいのかは追って詳しく述べます。

それでは、この創作活動の何処に初期様式と後期様式の分かれ目があるのでしょうか?
注目すべきは、1883年に完成した交響曲第7番です。
よく知られているように、失敗続きの彼の人生において始めての成功をもたらした作品です。そして、何故かブルックナー信奉者にはあまり評判のよくない作品です。

理由ははっきりしています。
分かりやすいのです。

スケルツォ楽章の単純さや、最後を締めくくるには弱すぎるフィナーレ楽章などの弱点を指摘されても、それを補ってあまりあるほどの分かりやすさがあります。
第2楽章のワーグナー追悼の音楽は彼にしては珍しく人間的な感情が爆発して、まさに後期ロマン派の音楽です。フィナーレの最後に冒頭の主題が高らかに歌い上げられて締めくくられるのも実に分かりやすいのです。
さらに、いわゆるブルックナー休止も少なく楽想がなめらかに流れていきます。

この分かりやすさが、始めて彼に成功をもたらし、この分かりやすさが一部の信奉者から疎まれる理由です。
しかしながら、ここにおいてブルックナーは完全に翻訳技術を身につけました。。そして、この翻訳の技術は、4番の改訂や6番の作曲にも生かされていますが、完全に自分のものにしたのはこの地点だったはずです。

レヴィに断られた第8番の第1稿

さらに注目すべきは、1887年に、彼が自信を持って完成させた交響曲第8番(第1稿)です。

この作品はよく知られているように、ブルックナー自身が「芸術上の父」と呼んでいたレヴィによって演奏を断られ、ブルックナーに大きな衝撃を与えました。そのために、ブルックナーは、すでに手を着けていた9番の作曲活動を中断して、改訂作業に取り組み始めます。おまけに、8番の改訂作業が終わると今度は3番、1番の改訂にも取り組み始め、それがために9番は未完成のままで終わったとも言われています。

勝手な改訂版をつっくたとして悪評の高いシャルクやレーヴェと共に、ブルックナー信奉者から糾弾されるレヴィですが、「9番未完成の張本人」と断定されればそれも当然でしょう。

しかし、この件は簡単にレヴィを糾弾してすむ話ではなさそうなのです。

私たちは、幸いにしてこの8番の第1稿を実際の音として耳にすることができます。例えば、インバルの指揮による演奏を聴いてみると分かることですが、なんだか先祖帰りしたような気にさせられます。
「せっかくあれほど分かりやすい7番を書いたのだから、もう少し何とかしてよ」とレヴィが思ったとしても不思議ではありません。

7番の成功で気をよくしたブルックナーは、その成功に気をよくしたためか思わず地が出たと言われても仕方のない作品になっているのです。
できないのならレヴィは無理を言わなかったでしょう。実際、彼は一貫してブルックナーの擁護者として困難な仕事を続けてきたのです。それだけに、「やろうと思えばできるんだからもう少し何とかしてよ!」と言いたくなったのも人情として理解できます。

そして、このレヴィの申し出が必ずしも不当なものでなかった証拠に、ブルックナーは強いショックを受けながらも徹底的な改訂作業に乗り出して、結果としては素晴らしい作品として第2稿を仕上げているのです。
まさに完璧な翻訳技術です。

1番・3番の大改訂作業

さらに、彼は8番の改訂作業が終わると、3番・1番の改訂作業に乗り出します。

何故に9番の作曲活動を中断してまでも、このような改訂作業を行ったのかは計りかねます。おそらくは9番の作曲活動の行き詰まりによる代替行為だったのかとも思いますが、こればかりは断定しかねます。

しかし、この時期の改訂作業に3番と1番を選んだ彼の心情は想像できます。
1番は彼が始めて完成させた大規模な交響曲ですし、3番は敬愛するワーグナーに献呈した自信作でした。そして、共に初演では歴史的大失敗を経験した作品でもあります。
9番の作曲が何故か思うように進まない彼にとって、悲しい過去を背負ったかわいい我が子を何とかもう一度世に出したいと思うのは当然です。

かつては翻訳技術の未熟さ故に、もしくは翻訳する必要性すら感じていなかったがために認められなかったこのかわいい子どもたちを、今の自分なら分からせることができると思っても不思議ではありません。自分の力への自信と、これらの作品に寄せる複雑な感情を思い合わせれば、9番の創作活動を中断してまでも、この改訂作業に乗り出したことを否定する気にはなりません。。

そして、この改訂作業の結果はどうだったでしょうか。
3番は、楽想の流れが驚くほどに滑らかになり、ごてごてした印象を与えていたワーグナーからの引用は一掃されてすっきりした音楽に生まれ変わっています。
1番については、まさに後期ロマン派様式の堂々たる交響曲に生まれ変わっています。

つまり、ブルックナー自身は、明らかに自分の作品を積極的に後期ロマン派様式に翻訳することによって、一人でも多くの人に自分の作品を理解されることを望んでいたのです。
こうして見てみると、彼の右往左往の人生も、以外と筋が通っていたようにも思えます。

そして、こういうスタンスに立ってみるなら、あの悪評高い弟子による改鼠版もそれほど捨てたものではないとも思えます。
かつての巨匠たちも改鼠版を使っていますし、クレンペラーなんかも随分と思いきったカットを施しています。全部を丸ごと改鼠版を使わないにしても、部分的には改鼠版のアイディアを借用している演奏も結構あります。
「ブルックナーも、結局は後期ロマン派の音楽家だよ」と割り切れば、そして、指揮者も基本は劇場の人なんだから「受けないと話にならないよ」と言うことになれば、それもありかなと思ってしまいます。

以上のことから、初期ブルックナーが周囲の理解を得るために、後期ブルックナーへと変貌していったことは理解されたかと思います。

初期を良しとするか、後期を良しとするか?

ですから、ブルックナーを評価するときは、このどちらを良しとするかで評価が180度変わってくることになるのです。

過去はずいぶんと脳天気に後期ロマン派の人だよと割り切って演奏していました。上述したように、改鼠版も大通りを歩いていました。
ところが、私たちは20世紀に入って、言葉の論理から断ち切れた音楽をたくさん耳にしてきました。そして、そういう音楽に親しんできた現在の聴衆にとって、かつては全く理解されなかった初期ブルックナーを理解することはそれほど困難ではなくなってきたのです。

おかしな話ですが、かつては理解不能と思われた初期様式のブルックナー作品が「理解」されるようになってきたことが、逆にブルックナー理解を巡って不思議なねじれをもたらしてしまったのです。

最近は、ブルックナーの神髄は5番にありという人が増えています。さもありなんです。5番は言うまでもなく、初期ブルックナー様式の最高到達点です。
ちなみに、6番はよく言われるように初期様式から後期様式への橋渡しと言われますが、雰囲気としてはすでに後期様式の色合いが濃いように思えます。

そして、最近注目をあびているのが第2番です。第2番こそは、ブルックナーの初期様式を最も端的に示している異形の交響曲です。ブルックナーの交響曲の中ではもっとも理解不能な音楽だったのですが、20世紀の音楽に親しんだ耳にはそれほど異様には聞こえなくなってきたのです。
結果として、この理解不能と言われた初期様式にブルックナーの真価を見いだす人々が現れ、新たな信奉者のグループを形成するようになったのです。

ですから、昨今のブルックナー信奉者は初期様式の支持者が多数派です。
それに対して、ブルックナーにある程度の距離を置く人は後期様式を支持する事で、何とかこのわかりにくい音楽家と折り合いを付けているように見えます。
さらに私が見るところ、指揮者の大部分は根底の部分では後期ロマン派と割り切っているように見えます。

このあたりの微妙なずれがブルックナーを巡る問題をややこしくしているのです。

初期ブルックナーを高く評価する人たちは、テンシュテットのような完全に後期ロマン派として割り切った熱い演奏を聴けば拒絶反応を起こします。フルトヴェングラーの演奏なんかは邪道の最たるものと批判するのです。
しかし、後期ロマン派様式として割り切っている演奏に対して、初期様式を支持する立場から、「ブルックナーのことを全く分かっていない!」みたいな言い方しても何の意味も持たないのです。

いつも不思議に思うのですが、ブルックナーについて何かを発言すれば、その発言が拠って立っている立場とは異なる立場から必ず石礫が跳んできます。そんな無意味なことが起こるのはブルックナーだけなのです。

しかし、ブルックナーの初期様式の音楽が未開の荒野であることも事実です。しかし、その初期様式の音楽がどのように演奏されるべきかを、おそらくは誰も知らないことも事実です。

よく、カラオケの苦手な人は、誰も知らないような外国の曲を外国語で自信たっぷりに歌えと言われます。
何故ならば、誰も知らないのだから、上手いのか下手なのかは誰も判断できません。後は、歌っている本人が自信たっぷりに歌っているんだからきっと上手いんだろうと拍手大喝采してくれると言うわけです。

実は、ブルックナーの初期様式の演奏はこれに似たところがあります。

後期ロマン派様式の音楽であるなら、その善し悪しをある程度は判断できる基準点を持っています。
しかし、ほとんどの人は初期様式のブルックナーがどのように演奏されるべきかを判断する基準点は持たないのです。
すべて第1稿を使った全集はインバルのものしかありません。この全集は、その意味では未開の荒野に最初の鍬を入れた貴重な仕事だといえます。しかし、後これに続く仕事がなく、これ単独では基準点にはならいことは言うまでもありません。逆に言えばそれだけ困難の伴う仕事だと言うことでしょう。

結果として、基準点を持たない初期ブルックナー様式の演奏は好き嫌いだけが絶対的な判断基準となって一人歩きし、ブルックナーを巡るおかしなねじれはますます酷くねじれていくのです。

ウィーン稿かリンツ稿か?交響曲第1番をめぐる問題

最後に、交響曲第1番における「ウィーン稿」と「リンツ稿」に関わる問題を付け加えておきます。

既に確認したように、ブルックナーの意志は明らかに自分の作品を後期ロマン派様式に翻訳をして、少しでも多くの人に理解してほしいと言う方向にありました。その事は、真のブルックナーの素晴らしさは初期様式に有りと確信している信奉者であっても、ブルックナーの本意がそこにあったことは否定できないはずです。
そして、どれを決定稿にするかという問題がブルックナーの場合は常に伴うのですが、このブルックナーの意志を尊重するなら、言うまでもなく彼の最終の意志を尊重すべきであることは言うまでもありません。
つまり、後期ロマン派様式に翻訳、改訂を行った作品は、それを決定稿にすべきなのです。

ところが、大部分はその方向で選ばれているのですが、唯一の例外が交響曲第1番なのです。
この作品のみ、何故かリンツ稿が決定稿として扱われ、ある意味ではブルックナー最後の完成作品とも言うべきウィーン稿が長年にわたって無視されてきました。

どうした訳か、多くのブルックナー信奉者たちはこのウィーン稿を忌み嫌います。
曰く、ウィーン稿にはリンツ稿の若々しさが欠ける。
曰く、セピア色の家族の集合写真に原色で第3者が闖入してきたようだ、等々。

しかし、ブルックナーの最後の意志はウィーン稿であったことは疑問の余地がありません。
ところが、古今の指揮者の大部分はブルックナーを後期ロマン派として割り切っておきながら、何故か第1番の交響曲だけは決定稿であるウィーン稿ではなくてがリンツ稿を使っているのです。

私の知る限り、全集を完成させた指揮者の中で、ウィーン稿を選択しているのはヴァントだけだと思います。
そして、このヴァントの選択を、レコ芸誌上で評論家の宇野氏が口を極めて罵っていたのを懐かしく思い出します。

しかしながら、ヴァントは明確に、自分はブルックナーよりは愚かだから、ブルックナーの最終的な決定に従うことを明言しています。
こうして見ると、稿の選択で筋が通っているのはインバルとヴァントだけと言うことになります。
ブルックナーの不思議なねじれは何処までも続きます。