音楽とイメージ

演奏におけるイメージの役割

2000年3月20日 追加 2015年3月11日加筆訂正

ある種の強烈なイメージを喚起させてくれる演奏と、全くそうでない演奏があります。
作品そのものにおいても同様です。
そして、当然のことですが、強く心に残るのは、前者の方です。しかし、その演奏、または作品が呼び起こすイメージは、他者との間での共有は不可能なような気がします。

music
たとえば、コダーイの「ハーリ・ヤーノシュ」から、間奏曲。
私は、この作品をジョージ・セルの演奏で聞くことが大好きですが、この曲をこの演奏で聞くと、決まって「涙を振り払いながら踊り続ける一人の男」の姿が浮かび上がってきます。
しかし、このように言葉にしてしまうと、すでに私の心象風景とは微妙なずれが出てしまいます。ましてや、他者がこの言葉からうけるであろうイメージが、私の心象風景と一致することはまずないでしょう。
これを、「Song , bat not for joy」と言えば、もう少し正確かもしれませんが、やはりピッタリと一致することはないでしょう。

同じく、この曲をテンシュテットの演奏で聞くと、「地面を転びまわりながら、泣きわめく男」の姿がイメージされます。これを、「みっともなさの極致に現れる美」と言い換えても、やはり他者との間での共有は不可能なような気がします。

考えてみればこれは当たり前のことで、言葉で喚起されるイメージで代替可能ならば、音楽というジャンルは必要がなくなります。
しかし、音楽には言葉での代替不可能なイメージは内包していることは確かです。

これら一連の演奏が、単なる純粋な音響の運動にのみ還元されるものと思えませんし、セルもテンシュテットもそのようなものとしてこの演奏を展開しているとは考えられません。
その内包されたイメージが、「私」というフィルターを通して、内面の柔らかい部分に到達しえたときに、強い音楽的感動を覚えるのではないでしょうか。

もちろん、音楽にそのようなイメージは必要ない、純粋な音響の運動として把握すればいいという考えもあるでしょうし、そのような考え方も決して否定するつもりはありません。
しかし、個人的には、そのような立場を標榜する作曲家や演奏家の作品、もしくは演奏は、あまり聞きたいとは思いません。

音楽における「物語性」は不純か?

確かに、人間は言葉で思考し、言葉でコミニュケーションをとります。人間の精神活動は言葉とともにあります。
しかし、すべてが言葉で表現可能かと言えば、それはノー!です。

言葉によるぎりぎりの思考と表現をもってしても表しきれない領域が、人間の内面には広大に広がっています。
その未知の部分に光を当てようとして、人は言葉以外による様々な表現活動を行ってきました。その表現活動が音楽であり、絵画であり、彫刻などであったのです。

これらの表現活動は、当初は神という存在と、それへの信仰という目的のために奉仕していました。
しかし、人々の関心が神から人間に移るにつれ、その追求の対象は人間の内面へと移行していきます。
言うまでもなく、この変化の境界線はルネッサンス期にあります。

それ以後は、題材を神や信仰にとっていても、追求しているものは疑いもなく人間存在そのものへと変化していきます。
この事は、例えばバッハのマタイ受難曲あたりを聴けば誰もが納得できることです。
形式はキリストの受難物語をとっていても、バッハが追求しているのは疑いもなく人間という存在その物です。卑怯で、利己的で、愚かで、傲慢で、そして無知で、しかし、反面、この上もなく崇高で、気高さをも併せ持った、不思議で矛盾に満ち満ちた「人間」という存在こそが探求され、表現されているのでです。

これが、モーツァルトやベートーヴェン以降になると、そのような外観すら放棄し始めます。そして、これがロマン派以降になるとはっきりと人間その物が追求の対象になっていることを標榜するのです。

ところが、このような契機で生まれてくる音楽を、不純なものだと考える人々がいるのです。何故ならば、探求の対象が存在すると言うことは、そこに「物語性」が介入するから「不純」だというのです。
そして、音楽におけるイメージの介在を否定する人々の論拠となっているのもそのような考え方のようです。

彼らは、このような、ある意味での「物語性」を持ったような音楽は原始的な存在だというのです。
音楽というのは、音響その物だけで純粋に自立的に存在するものであり、なんらかの「物語」に寄りかかって存在する音楽は、音楽全体の発達からみればごく初期の存在にしかすぎないと主張します。ですから、これから生み出される音楽はそのような物語性に寄りかからず、純粋に音響の運動体として発展していくべきだというのです。そして、過去の作品も、そのような観点から洗い出して、一切の物語性を排して、純粋な音響の運動体として再構築された演奏が必要だと主張します。

ですから、音楽を聴きながらそこに何らかのイメージを描くなどと言う行為は、原始人なみの、愚かで幼稚な聴き方だとなるわけです。

しかしながら、これを他のジャンルに拡大していくと、こうなります。

絵画は、純粋に色彩とフォルムの運動体として捕らえるべきで、そこに何らかの物語性を介在させることは許されない。具象画なんてのはナンセンスの極み、原始人の営みだ、となります。
映画は、映像の運動体、そこにストーリー性を求めるなどは原始人の要求。
文学も、文字の運動体、主題やテーマを探るなどは愚の骨頂。

あれっ!これって「前衛」とか「現代」なんて言う接頭語がつく20世紀後半の愚かな営みの事じゃないですか?

でも、悲しいことに(嬉しいことに?)、こういう進歩的な考え方は世間一般からは見放されています。これは断言できます。
そう言えば、妻はかつてポンピドーセンター(注:パリにある主に20世紀の現代美術の作品を集めた美術館)に行ったときは、一時間で頭が痛くなり、二度とあそこには行きたくないとのたまっていました。
そんな彼女も、ルーブルは何度行っても飽きません。
映画でも、大ヒットするのは「タイタニック」のような作品です。
それとも、チャップリンの映画が今も多くの人を感動させるのは、みんな馬鹿だからでしょうか?

そして、最も惨憺たる状況を呈しているのが、クラシック音楽における前衛の営みです。

確かに、こういう試みも少しは面白いなと思うことはあるでしょう。響きの面白さや、色彩、フォルム、映像の面白さに感心することもないわけではありません。

しかし、面白いと思うのと、感動するのとでは、これは心の動きとしては次元が違います。
そして、人間というものは、感動しない限り次のレベルの行動へ移っていかないと言うのは厳然たる事実です。

人は、ある作品から深い感動を覚えた時のみ、次の未知なる作品へと探求の手を伸ばしていきます。「面白い」と思うだけではダメなのです。
現代音楽がプログラムのコンサートに行ってみなさい。面白かったですよ、と言う人はいても、心から感動した人が何人いることか。

人の心の奥深くに届くメッセージを持たないような、いや、もっと正確に言えば、心の奥底にメッセージを届けることを拒絶しているような表現活動に、聴く人の心が動くはずがありません。そこでは、ある種、知的な関心や好奇心はかき立てられても、感動とは縁遠い世界が展開することになります。

音楽におけるテクニック

ところが不思議なことに、「聞くことが中心」の人は音楽理解における「イメージ」の重要性を認めるのに対して、「演奏することが中心」の人は「イメージ」を介在させるのは邪道だという立場をとる人が多いようなのです。
それでは何故、演奏する側の人は、音楽における「イメージ」「心象風景」を拒否して、単なる音響の運動体へと還元したがるのでしょうか?

ただ、さらに不思議なのは、いわゆる「巨匠」と呼ばれたような人は、音楽の中に存在する豊かなイメージを語ることが多いのです。

思うに、ここにこそ日本人演奏家の最大の弱点が潜んでいると考えています。
つまり、「テクニックは一流だが、音楽性に欠ける」、それこそイヤになるほど繰り返されてきた指摘です。

これに対して、「なにが、音楽性だ!そんな訳のワカランもので批判されるなどまっぴら御免。音楽なんてものは所詮は音の運動体。書かれたスコアをどれだけ合理的に音に変換するか、重要なのはテクニックなんだよ!」という声が聞こえてきます。
つまり、日本の演奏家の大部分は、この音楽性云々の指摘に対して、表面上は恐縮しているように振る舞いながら、本音の部分では、こんな指摘なんか「アナクロニズムの産物」と反発しているのです。

まあ言ってみれば、客観的基準では測定不可能な曖昧きわまる音楽性等というもので、自分を評価されたくないのでしょう。

実際、よたよたのテクニックで聞くに耐えないような「老大家」の演奏を「音楽性あふれる演奏」と天まで持ち上げる人も多いのは事実です。
そんな悲惨な演奏を褒めちぎりながら、技術的には何の瑕疵もない自分の演奏を、音楽性に欠けると言って切って捨てられれば、誰だって腹が立ちます。

しかし、音楽がテクニックだけに還元されるものでないことも明らかです。
明らかでない人もいるかもしれないので、もう少し丁寧に言えば、テクニックはあくまでも「手段」であり、決して「目的」ではありません。
聴衆の大部分は、テクニックを楽しむためにコンサートに行くのではなく、そのようなテクニックを駆使して展開される優れた演奏を通して音楽的な感動を得たいがためにコンサート会場に足を運ぶのです。
人はテクニックに感心することはあっても、感動はしないものです。

では、どういうときに感動するのか?
しつこいですが、また繰り返します。
「音楽作品に内包されたイメージが、「私」というフィルターを通して、内面の柔らかい部分に到達しえたときに、強い音楽的感動を覚える」のです。

ですから、演奏家にとって重要なことは、作品に内包されているイメージを的確に把握することです。そしてその把握されたイメージを表現するためにこそ、テクニックは奉仕すべきなのです。
しかしながら、そんな聴衆の中に、コンサートに行ってもテクニックのことばかり気になり、そのことにのみ集中している人も少なくないことを知ってちょっと驚きました。
こういうコンサート通いをする人は、100%演奏に携わっている人です。「ウワァー!あんな難しいところを平然と弾ききったよ、スッゲェ!」なんて思いながらコンサートを終えるんだそうです。

楽器習得の難しさがもたらすもの

そして、さらに問題を突き詰めていくと、「楽器習得の難しさ」という問題に突き当たります。なんだか、突然突飛なことを言い出しますが、これもまた避けては通れない問題です。

実際、楽器というのは難しいものです。どのような楽器にしても、それなりに演奏できるようになるにはそれなりの習練が必要です。

この困難度を数値化するために、「習得のための必要最低時間」と言う概念があります。
ある種の技能を身につけるために必要な最低限の時間のことで、これを基準にすればそれぞれの技能習得の困難度が数値化できるというわけです。

ちなみに、車の運転は30時間だそうです。パソコンが最低限使えるためにも30時間が必要だそうです。
ならば、車が運転できる人なら、誰でもパソコンは使えると言うことです。

英会話の習得には1000時間必要です。これは、彼の国で3ヶ月過ごせばクリアできる数字で、実態によくあっているそうです。
それでは、ピアノの習得には何時間必要か?

なんと、10000時間です。
分かりやすく翻訳すると、毎日3時間の練習をさぼることなく10年続ければよろしい、と言うことです。英会話の習得より10倍も困難なのです。

ここに、多くの少年少女がピアノレッスンに通いながら、その圧倒的大部分が挫折してしまう原因があります。

しかし、注目すべきは、それだけの習練を積んで身に付く技術のレベルは、車で言えば30時間、英会話で言えば1000時間のレベルにしかすぎないということです。

プロの演奏家は車に例えればレーサーです。もちろんレースのレベルはその辺の草レースからF1のレベルまで幅は広いですが、30時間のレベルとは隔絶していることは事実です。

プロの演奏家としてやっていくためには、その10000時間の上にいったいどれだけの時間を積み上げていけばいいでしょうか。そう言えば、あのバックハウスは死ぬまで毎日8時間の練習を課していたそうですね。そして、舞台で倒れて生涯を閉じた人です。

つまり、人生の最初の大部分を楽器の習得に捧げても、果たしてプロとしてやっていけるかどうか分からないと言うほど厳しい世界なのです。逆に言えば、プロの演奏家というのはきわめて狭い範囲の世界しか知らずにおよそ20年の人生を終えてしまった人でもあるのです。
ですから、他人様に聞いてもらえ、楽しんでいただけるだけの演奏技術が身に付けば、そこで一段落したいのは人情でしょう。

この一段落したいという気分と、かくも困難な習練を成し遂げたというある種のエリート意識こそが、音楽を音の運動体として把握する考えの根底に潜んでいるような気がします。

しかし、聞き手は貪欲です。
演奏する側のとりあえずの到着点は、聞き手にとっては全くのスタート点にしかすぎないのです。その身につけた技術を持って人間と人生を表現してほしいのです。

ところが、こういう物言いは、演奏する側からすれば、ただのど素人が訳の分からない「音楽性」なるものを持ちだしてきて偉そうにあれこれ言ってるようにしか聞こえないようなのです。それ故に、聞き手のこのような態度もまた、演奏する側にすれば我慢ならんのでしょう。
ここに、演奏する側と聞く側のギャップが生まれる原因があります。

そして、演奏側の人が音楽を単なる音響の運動体ととらえる見解に共感する理由もここにあるように思います。純粋に音の運動体として把握すれば、そこには素人が口を差しはさむ余地はなくなるからです。
おまけに、そのようにとらえれば、これからも楽器の練習だけしていればすむわけですから、新しい勉強はそれほど必要がなくなります。
しかし、それでは困るのです!!

私はかくも困難な道を踏み越えてきた多くのプロの演奏家を心から尊敬しています。
そして、そのような尊敬の念からもう一度はっきりと断言します。

それでは困るのです!!

楽器の演奏技術の習得はゴールではなくスタート点です。本当の勉強はここから始まることを肝に銘じて欲しいのです。

では、何を学ぶのか?
答えは簡単、人間を学ぶのです。
多くの文学作品に親しみ、優れた絵画や映画に接して欲しいのです。特に、古今東西の古典と呼ばれる作品にふれることは不可欠の条件です。そこには、人間という存在のあらゆる相が描かれています。

そして、そうした中で身につけたもので、もう一度作品を見直し、その中に表現されている人間を、自分なりの解釈で表現して欲しいのです。
このフィードバックがなければ、演奏家はもはや、たんなる「楽器の軽業師」になってしまいます。
そして、この困難の上に困難を積み上げたような道を踏み越えてきた人のみが、真の芸術家としてへの入り口にたたずめるのだと思います。
そのような一流演奏家が、音楽におけるイメージの重要性を強調するのは、決して理由なき事ではないのです。